simanomusume58
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(五十八) 小切手の一片(ひとひら)
網「では本当に今夜を新紀元として、生まれ変わって下さるか。」
梨英はまだ震える声で、
「生まれ変わります。けれども網守子、私は今夜、もう何事をも言う力が有りません。考える力が有りません。生まれ変わると決心はしても、何の様にすれば生まれ更ることが出来るか、其の方法は篤(とく)と考えなければ成りません。今夜は是で暇にして、更に貴女へお話の出来るだけの筋道が立った時に、又お目に掛かります。」
言葉の調子が、今までの感情に走った調子と違う。必死に思い定めた意思から発する様である。網守子は又梨英の手を取って、
「私は嬉しくて仕方が有りません。全く昔の通りの路田梨英に成り、大発展を遂げて下さいよ。」
梨英は、立ち去ろうとして、まだ立ち去り難い事が有る。其れは蛭田江南が、何れほど網守子に接近して居るか知りたい。
「貴女は此の都に於いて、何事をも相談する人は有りませんか。」
網「谷川弁護士の外に誰も有りません。」
梨「特別懇意にする人は」
網「先刻の柳本小笛嬢より外にーーー。」
と言い掛け、初めて気の付いた様に部屋の中を見廻して、
「何時の間にか小笛嬢は去って了(しま)いました。私は嬢より外に誰も親しい人は無いのです。」
梨英の眼は一寸江南詩集の方を射たが、又網守子の顔に返えり、
「貴女の様な大財産の有る若い女が、都に居るのは色々の危険が有ります。何事も谷川弁護士に相談して、ーーーー。」
網「是からは貴方に相談します。」
梨英は心の痛手に耐えられない人の様に、殆ど顔を顰(しか)めて、
「私自ら過ちばかりで、自分の身の始末さえ出来ず、人の相談を受ける資格の無いのは残念です。けれど是からは其の資格を作らなければ成りません。」
と言い、硬く網守子の手を握り〆た。是が彼の分かれであった。
網守子は、家の入口まで梨英を送り出した。其の帰りに、初鳥夫人の居間を覗くと、添子は炉の前に居眠った振りをしている。
網「若しや柳本小笛嬢がここに来ませんでしたか。」
添子は睡(ねむ)相に目を擦(こす)りながら、
「来ましたけれど、先ほど帰りました。」
其のまま網守子は自分の部屋へ引き返した。
部屋に帰って、炉の前に身を置き、今夜の事を考えて見ると、路田梨英の零落れた様も甚(ひど)いが、愈々(いよいよ)奮発して、大発展の道に入る決心の出た事も確かである。是はだけは全く嬉しい。彼は今夜を、自分の身の新紀元であると言った。此の新紀元が何の様な事を生み出すであろうなどと思ううち、炉の前に異様な一片の紙切れの落ちて居るのが目に留まった。是は梨英が破り捨てた小切手の一屑(ひとかけら)である。
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