simanomusume73
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十三) 損失は引き受けます
添子より家を早く出た網守子は、第一に国立美術院に行き、自分の稽古の為に古い名画を写しなどし、時刻を計って、次に捨部竹里を訪れた。
竹里は網守子から柳本阿一の戯曲の事を聞き、深くは信用しない様な口調で、
「イヤ、戯曲などと言う者は、中々素人に旨(うま)く作れる者では有りません。貴女が幾等感心なさったと言って、処女作で直ぐに興行主の気に入る様なのは、先ず無いと言うのが通例です。」
網守子は残念で仕方が無い。
「でも当人が真の天才ならば、処女作だと言っても、立派なのが無いとは限ら無いでしょう。」
竹里「イヤ、天才と言われる人が、幾度も失敗し、失望に失望を重ねながら、経験を積んで、漸(ようや)くに、其の天才を現わすことが出来るのです。名高く無い人の作は、何か特別の事情が無ければ、孰(いず)れの興行人も、引き受けないでしょう。」
全く竹里は常識に富んだ男で、容易に物事に惚れ込むと言う様な事は無く、何事に就(つ)けても冷淡である。
網「特別の事情とは、何の様な事情ですか。」
竹「仮例(たとえ)ば、其の興行に損が行けば、損失の幾分を引き受けると保障する人があるとか、又は!」
網「何れほど損失を、引き受ければ好いのです。」
竹「オヤ、貴女はご自分で損失を引き受けても、其の戯曲を興行させ度いと言うのですか。」
網「そうです。」
竹「イヤ其れは達て御止め申します。芝居の様な興行物で失敗すれば、大抵の財産は潰れます。」
網「でも、一日か二日興行して、失敗と見たなら、直ちに止めると言う様な事は、出来ませんか。」
竹「其れも出来ないことは無いですが、大劇場では出来ません。中等の劇場でも、若し試みに三日間、演じさせるとしたら、俳優の稽古料、その他を合わせ、五万円(現在の約五千二百萬圓)は提供しなければ成らないでしょう。」
網守子は考えた。
五万円を出すと言ったら、中々谷川弁護士が聞き入れないであろうけれど、自分が丁年(成人)に達するのは、もう間も無い事である。其の時には、谷川弁護士が何と言おうとも、自分で自分の金を自由にすることが出来るだけでなく、先日添子から、三万五千円(現在の三千六百万円)の借金を申し込まれた事を考えて見れば、其の上に一万五千円を足せば好い。
「ハイ、事に由っては、其れくらいの損失は私が引き受けても構いません。」
竹里は呆れた様に網守子の顔を見て居たが、如何にも熱心に見えるので、
「其れとも誰か、勢力の有る株主から推薦すれば、興行主が従います。」
網「株主には何うすれば成れるのです。」
竹「確実な劇場の株主なら、損失の危険は少ないですが、其れでも十万円(現在の約一億円)は出さなければ、勢力が得られません。」
網「十万円で直に株主に成れますか。」
竹「イヤ、是は唯お話しする迄の事で、其の様な斡旋(あっせん)は、私はお断りします。」
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