simanomusume89
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(八十九) 水掛論には及ばぬ
今や部屋中の紳士貴婦人が、孰(いず)れも手近の人々を相手にして、頻りに談話を戦わしているが、其の題目は無論今夜の感想である。或る人は網守子の音楽を評する。或る人は小笛の詩を褒める。併し阿一の戯曲が近来の傑作だと言う一事は誰の説も一致している。
又、二人の紳士は額(がく)の前に立ち、其の絵を評して居る。
甲「谷川さん、貴方は法律家だけに、文字を証拠と為さるが、画の問題は決して法律論では解けませんよ。」
この様に言い掛けられた乙紳士は、成るほど谷川弁護士である。
「でも署名ほど確かな証拠は有りません。此の絵の表にL.Mと署名して有るから、L。Mと言う人が此の絵を書いたのに決まって居ます。」
甲「イヤ、此の下絵を貴方は何年ごろの作品と認めますか。真逆(まさか)に数百年前とは言わないでしょう。私の鑑定では、ツイ四、五年前に出来た者と思います。そうすれば誰か今の世の画家の作に決まって居ます。今の世にL.Mと、署名する画家は無いのですから、是を蛭田江南氏の変名だと言うのです。」
谷「イヤ、貴方が幾等画の鑑定家として名誉が高くとも、L.Mと言う明白な文字を、江南の変名と言うのは間違いです。私は江南が私の事務所に居た時から彼を知って居ますが、彼は決してL.Mなどと言う変名を用いたことが有りません。」
甲「でも筆の行き方が徹頭徹尾江南です。」
谷「筆の行き方でそう明らかに分かる筈は無い。」
甲「イヤ、天才の筆は各々特徴が有りまして、何人にも模倣を容(ゆる)さぬ輝きが見えるのです。此の絵は下書きでは有りますけれど、三枚とも、江南で無ければ出来ません。」
谷「なるほど、絵の題材は江南の常に用いる海の景色で、江南の乙姫と云われる少女の様な姿も有りますけれど。」
甲「イヤ私は題材を見て言うのでは有りません。画家は色々の対景を画きますから、対景の同じ画は幾等も有ります。併し筆の行き方に至っては、師匠と弟子とでも幾分か違っています。若しも此の画が蛭田江南の自筆で無ければ、私は今後再び、絵画の事には口を出しません。」
争う所へ、段々野次馬が増して来るが、孰れも此の絵を江南の筆と言うことに一致し、中には物知り顔に、江南が網守子に此の下絵を送ったのだろうと合点し、
「今に必ず分かる時が有りましょう。」
などと言うのは、江南と網守子との間に、近々縁談でも発表される様に思って居るらしい。
谷川弁護士は孤立の様で、
「諸君はL.Mと言う署名を無視しての議論だから、余り得手勝手です。イヤ何も水掛論を戦(たたかわ)すには及びません。江南が居るから直接に問えば好い。」
と言ってここを去ったが、甲紳士は口の内で、
「法律には明るくとも絵には暗いなア。」
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