warawa7
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第七回
目の前に指し付けられた妾(わらわ)の手紙、何と言って好いだろうか。古山が如何して手に入れたのか知らないが、今、村上と妾との事が露見しては妾の身の一大事。村上の心が未だ変わらないなら三年の後までは堅く隠そうと決心した妾の恋。もし又心変わりしたとあれば猶更(なおさら)隠さなければならない訳である。
身分のない者を思い染めて他の女に見返られたとあっては何(ど)の顔を世に逢(あ)わそう。妾は思案も未だ定まらなかったが秘(かく)そうと思う一心でようやく顔の色を取り直し、
「その手紙が何の証拠になりますか。誰の手紙です。」
古山はせせら笑い、
「ヘン、誰の手紙・・・、驚いたなあ、自分で書いた癖に」
(妾)ヘ、自分とは、自分とは誰の事です。
(古)コレ、嬢、空とぼけても駄目な事だ。多分村上との事だろうと思って、久しい前から目を付けていた所、先日部屋の外で聞いていれば、洲崎嬢と一人の男を争って、誰も居ない事と思い声を立てての喧嘩三昧(けんかざんまい)、その後で如何するかとと鍵穴から覗いて見ればコレこの手紙を認めて村上に遣る様子に、先に回って横取りしたのだ。
腰元には少しの銭を遣り口止めをしてあるから無事に届いたと思ったろうが、村上へは届かないのだ。
(妾)それは余りに失礼です。
(古)サア、〆た、失敬と言うからには自分で書いた覚えがあるだろう。肝心の名前がないから何の証拠ににもならないところをその一言で証拠にした。
(妾)エエ、貴方は何処まで失敬だか分かりません。貴方の心は恐ろしゅうございます。
(古)ナニ失敬だのと恐ろしいのとその様な訳で横取りをしたのではない。コレも吾女(そなた)を愛する為だ。この手紙を村上に届けては彼奴(やつ)が吾女と踊るだろうとそれが妬ましくて取ったのだ。
--さては村上が洲崎嬢と踊ったのは心が変わったためではなく、この手紙が届かなかったためだったのか。
(古)サア、こうまで焦がれている男をこれでも愛する気がないのか。
(妾)ハイ、ありません。貴方の愛は汚らわしゅうございます。サッサと出て行って戴きましょう。
(古)ヨシヨシ、幼い時から許婚も同様に暮らしながら今更恥をかかせるとは村上を愛する為だな。
妾はここに至ってやむを得ず、
「ハイ、そうです。村上を愛するから貴方に与える愛情はありません。」
古山はたちまちう血色の変わるまで怒りを現し、
「そう聞けばそれで好い。侯爵の一女として身分もない医学書生を愛する事が出来るものか出来ないものか思い知らせてやる。又、村上も身の上知らずだ。侯爵が目を掛ければ図に乗って大家の娘・・・しかも私の許婚もも同様な吾女(そなた)をそそのかすとは太い奴だ。この手紙を唯一目父侯爵に見せさえすれば筆癖と言い、文句と言いこれが分からない人ではない。
吾女(そなた)はさしあたり座敷の中に籠められ、村上は放逐だ。病家の娘を煽(そそのか)したと世間の人に知らせれば信用は落ち尽くし出世の道は絶えてしまい、生涯を乞食同様に送るのだ。侯爵家の令嬢に思い付かれた少年が乞食になったと言われては父侯爵まで世間に顔向けが出来なくなる。これでは侯爵に気の毒だが吾女(そなた)が恥をかかせた報い。せめて父にでも寇(あだ)をしなければこの古山の腹が癒えない。」
と毒々しい言葉を残しながら早や立って去ろうとした。
妾は如何してこの言葉に心を動かさないわけがあろうか。恋が叶うなら、妾が座敷牢に飢え死にするのは厭いはしないが、村上には出世の道を失わせ、父には面目を失わせる。ことに頑固な父の気性、どれ程立腹することか。どれ程悲しむことか。今までも古池家の血筋に平民の種を入れずして世に誇る父であるのに。・・・、アア妾がどのようになるともこの秘密を父に知らせてはならない。この場を穏便に収めなければならない。迫り来る悔し涙を飲み込んで、
「貴方、お待ちなさい。父には何時でも知らされます。」
と言えば古山は又忽ち顔を和らげて踏みとどまり、
「フム、有難い、待って呉れとは私を愛するというのだな。」
(妾)イエ、そうはいきませんが。
(古)そうは行かないなら、こっちもそうはいかない。敵になって父までも苦しめるか、味方になってこの私と夫婦になるか。サア二つに一つの確かな返事を聞こう。」
詰め寄って避けることも逃げる事もさせない。アア妾の運は今古山の手のうちにある。実に必死の場合に迫っている。
「今十日の間待って下さい。好く考えて返事をします。」
(古)考えるのに十日はいらない。
(妾)でも直ぐには返事が出来ません。
(古)などと待つうちに用意をして村上と一緒に逃げられては玉無しだ。
この言葉は実に妾の急所を指した。妾は言い伸ばして、その間に村上の心を聞き、まだ初めの様に妾を愛すとならば共に逃れるの外はなしと思ったのをこう見破られてギョっとしたけれど、ナニ逃げなどするものか。三里と外に出た事のない私ですもの。
(古)フム、逃げないのなら十日に及ばない。三日だけ待ってやろう。三日が経って満足な返事がなければその時は容赦はない。
僅かに3日の猶予だが妾はほっと安心した。三日の内といえども逃げられないはずはない。村上は風邪と聞いたが今は十日余り経っているので大方は治っているだろう。今夜にも妾自ら忍んで行き、会って十分に心を聞こうと妾は少しの間に早やくもこの様に考えたので、古山に向かって、それなら三日でも好いと言うと、古山は何度か期限を繰り返して立ち去った。
妾は猫の爪に許された鼠に似ている。一刻の猶予もなく直ぐに用意をしなければ間に合わない。用意についても第一に油断がならないのはあの腰元だ。新参のことなので未だ妾の恩に懐(なつ)かず、大事な手紙を金で売ったと言うからは、また金のために古山に頼まれて妾の様子を伺うか分かったものではない。
そこで妾は先ずお房(その腰元の名)を呼び、訳を言わず少しの金を与えて暇を出し、直ぐに屋敷から退けて、その後で密かに手荷物などを作り、いざと言えば今夜のうちにも逃げ去る覚悟をしてこれをベッドの下に隠して置いた。
そのうちに早や夜に入って八時過ぎとなったのでこれから村上の所に行こうとこっそりと家を出たが、今夜はあたかも闇夜で殊に空は一面かき曇り暗い事と言ったらたとえ様もない。忍び出るには絶好だが恐ろしさもひとしおだった。
今から思うとこの恐ろしさは虫が知らせると言うものだったのか妾は心を鬼にして門を出て、わずかに十間(18m)ばかり行った頃、急に来て妾に突き当たった人があった。誰なのか顔は分からない。
「オヤ」
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