yukihime14
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.9.17
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第十四回 「我がまま者」
公爵楠原吉光は、その身分の貴(とうと)きのみならず、男振りも非常に優れ、絵に描(か)いた様な美男子なので、真に河畑清子とは、孰(いず)れも劣らない、一対の好い相手である。羨み眺める人々も、心の底には吉光の妻として、清子ほど似合わしい者はないと、忌々(いまいま)しいながら見て取れる。
清子は相も変わらず、雪姫の雪の様に、冷ややかに控えていたが、年頃の女には、五官の外に一種微妙な感覚がある。目にも見ず耳にも聞かなくても、何となく我が傍に、大変な人が来て、近づく様な心地がし、頬の辺りが温かくなるのを覚え、それとは無しに、顔を挙げると、以前から噂さに聞いて知っている、公爵の君が、此の家の主夫人と共に来て、我が前に立っている。
やがて主夫人が、一粒選りの言葉で、公爵を紹介するのを聞きつつも、盗人の妻であるのに、この様な貴い人から、礼を尽くされるかと思うと、少し血の色が現れようとした頬も、又元の様に冷ややかになった。
若し清子が、低い身分の家庭に育った女ならば、此の場合に、我が身の浅ましさと、公爵の貴さを思い比べ、日に照らされる草葉のの様に、自ずから萎(しお)れ入り、度を失って不束(ふつつか)な振る舞いも、有るに違いないが、盗人の隠し妻とは言え、心の底には、一種身を重んじて、簡単には人に下らない、高い所があるので、
冷ややかではあるが、悪怯(わるび)れる所は無く、泰然として相対する様は、寧(むしろ)ろ公爵よりも、もっと上の身分ででもあるようだ。折しもゲルマン流のワルツを促す音楽は、部屋の彼方から、喨々(ろうろう)として起こり、満堂の子女をして、知らず知らずに、体爽やかに動き、足軽く揚がる様な想いを起こさせていたので、公爵はここだと思い、一緒に舞って呉れるように請うた。
公爵から、この様な所望に逢うことは、幾多の令嬢が、思い焦がれて居る所なので、飛び立って応ずるかと思いの外、清子は唯だ静かに、
「イイエ、私は」
と言い掛けると、公爵は皆迄言わさず、
「お厭(いや)とは、余りにお心無しです。そう仰らずに、是非とも踊りましょう。アノ音楽をお聞き為さい。心が浮きたつでは有りませんか。」
清子は非常に幽(かす)かに笑みて、
「でも御免蒙りましょう。」
再び迄断わられるは、公爵に取って、実に初めての経験である。若し公爵の熱心さが、今迄五分か六分だったとしたなら、此の断りの為に、忽ち十分にも十二分にも亢進し、世にはこれ程迄も、世辞偽りの無い、これ程までも清い女子があるかと、深く感動して、
「貴女は踊りがお嫌いですか。」
清「イイエ、嫌いでは有りませんが、今は踊り度くないのです。」
何というその言葉の冷淡なることか、お世辞を受けるのを、此の上ない名誉と思う世の常の男ならば、殆んど怒りもすべきであるが、全く心酔して、我が者とせずには止まじと迄の決心を起こし、
「では人の踊って居る間、ここで悠々お話を致しましょう。」
是をまでも辞(いな)みはならず、力無げに、
「ハイ」
と答えたけれど、身を片寄せて、我が傍に公爵の座すべき場席を作ろうともせず、公爵は止むを得ず、立ったままで話始めたが、これは女皇の前にでも出たに異ならない。
此の様を何処からか見た者と見え、父良年は馳せて来て、
「和女(そなた)は先(ま)あ、公爵にお座をも与えずーーー。」
と叱る様に言って、自ら椅子を取って公爵に差し出し、更に恭(うやうや)しく挨拶し、
「誠に男の手一つで育てたた我儘(わがまま)者ですから、お心置きなくお叱りを願います。」
と言い、話の邪魔に成らない様、軽く切り上げて去ったのは、流石にオーストリアの宮廷に、使命を全うした外交家で、之も公爵を福の神その物と思う一人であるとは知られる。
公爵は力を得て、是から、清子が喜ぶような事柄ばかりを語り出すと、清子は唯だ聞き流すのみにして、別に感じる所が在る様には見えない。清子が、冷ややかなれば冷ややかなる丈け、公爵は益々熱心を増し、誰の目にも、全く清子に嵌り込んだことは明らかなので、満堂の親達娘達は、早や福の神が敵の捕虜に為ってしまったと、非常に不機嫌になってしまった。
殆んど自狂(やけ)の有様で、殊更(ことさら)に声高く談話する者も有る。
「部屋の中は、蒸返(むせかえ)り相です。好く先ア、此の中で、落ち着いて話などする人が有ります事ねえ。サア盆栽室へ行きましょうよ。」
などと当てこすりを言う者も有ったが、この様な人に限って、容易には自ら此の部屋から、去ろうとしないのも可笑(おか)しい。
そのうちに会も終わる刻限と為り、公爵は残り惜しく清子の傍を離れたが、独り清子との談話を思い返しながら考えて見るに、凡そ一時間の余りに渡る間、清子からは、一片の笑みをも得る事が出来なかった。露ほども、清子を喜ばす事が出来たと思う所も無い。
好し、好し、これ程迄得難い女ならば、何としても我が妻にしなければ成らないと、愈々(いよいよ)深く思い込んで、既に後々の作戦計画をまで心の中に描く折しも、早や清子が帰り去ろうとして、玄関先に出るのを見たので、追って行って、
「清子さん、お名残に、その花束の中の一輪を頂きましょう。」
と言うのは、全く恋人の有様である。清子は単に、
「此の花はもう枯れて居ます。」
公「イヤ、枯れて居ても、貴女の手に触れた花です。摘みたての花より美しい思いがします。」
清「イエ、上げられません。その様な冗談を言う方は嫌いです。」
と言い、そのまま馬車の中に隠れてしまった。昔し、我が手から草花を与えた或る人の事を、清子は急に恋と言い、恋人と言う事が非常に厭(いと)わしくなり、我れを優しくする人は、我に身を誤らせる人ではないかと、唯だ一概に疑って、男子総体に憎さを与えた。此の憎しみが、どれほどの間、続き得るのかは分からない。
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