巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime25

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.06

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         第二十五回‎ 「死に分かれにも増す生き別れ」

 如何(いか)に分かれが辛いからと言っても、分かれなければならず、ここで分かれれば、生涯又と逢うことは出来ず、又と見てはならないとは、清子の様に、春川の様に、深く愛し愛される間に取って、如何(どれ)ほどか、辛い事に違いない。

 死に別れにも増す生き別れである。生木を割(さ)くのと同じことではないか。春川は少しの間、首を清子の膝に垂れ、顔を衣服の襞(ひだ)に当て隠し、泣き入って居るかと、疑われる様子であったが、漸(ようや)く顔を上げて来て、再び向かい合った顔と顔とは、どちらも非常に血の色を失い、どちらも非常に悲しそうである。殆(ほと)んど優り劣らない思いだと知られる。

 頓(やが)て春川は、深い絶望の嘆息(ためいき)と共に、
 「アア、女の心は是れほどまで邪険でしょうか。男を全く迷わせて、魂をまで奪った上で、生涯の分かれなどと、それでは初めから、男の生涯を誤らせる覚悟で居るのも同じ事です。真に、真に罪を作ると云う者です。」
と恨み叫んだ。

 清「イイエ、春川さん、前から私は、今申す秘密の為に、誰にも愛せられては成らない。誰をも愛しては成らないと覚悟し、若し、愛と云う者が兆(きざ)したなら、直ちにその人と遠ざかり、愛を萌(めばえ)の中に摘み捨てようと、此の様に思って居ました。

 貴方と親しく附き合っても、少しも男女の愛とは思わず、唯だ友達の睦まじさとのみ、気を許して居る中に、何時の間にやら、愛の情が出たと見えます。自分でそれと気が付いたのは、昨夜貴方の言葉を聞いた時です。

 ハイ、もう如何(どう)にも、取り返しの附かない時です。若しその前から気が附いて居たのなら、何で貴方に生涯を誤らせる、此の間際まで、黙って居ましょう。

 自分の身にとっても、死ぬより辛い今の今まで、何で浮々(うかうか)深入りを致しましょう。全く自分の愚かさから、死ぬより辛い生き別れの破滅に陥り、貴方にも同じ苦しみをお掛け申すのは、お詫びの言葉も有りません。」

 真心をこめて、殆んど謝罪の様に伝えると、春川も翻然(ほんぜん)《急に心を改める様子》として悟り、
 「成るほど、今までの貴女の様子を、良く考えて見れば、貴女が厳重に、男の愛を防いで居たのは良く分かります。それを思いやらず、今の様に恨みがましい愚痴を吐いたのは、我ながら恥じ入ります。

 清子さん、清子さん、私は一時なりとも、貴女の愛を得たと思えば、何の様な苦しい思いに、これから過ごすとも厭いません。他人に生涯愛せられるより、生涯貴女に焦がれて居るのが、何れほど幸いか知れません。ですが清子さん、貴女の身に、その様な秘密とやらのある事を、父上は御存知ですか。」

 父にこの秘密を、疑われて成るものか。清子は慌てて、
 「イイエ、父は知りません。決して知らさない様に願います。若し貴方から外の人に、私の身に秘密があると言う事だけでも、知られては、私は一刻も生きては、居ない積もりです。」

 容易成らない決心の程が見えるので、春川は一層又その秘密を怪しみ、且つは清子を憐れんで、
 「清子さん、昔と違い、今の世には、命に替えても守らなければ成らないと云う様な、その様な秘密は、決して有りません。秘密の為め、貴女の美しい生涯を、掻き消すとは、余り残念ではありませんか。」

 そうだ、その残念は、春川よりも良く知っている。しかしながら、全く生涯を掻き消すに足る秘密であるので、既に我が生涯は、その為に掻き消された後であるのにも同じなので、今更どうしようも無い。

 「ハイ本当に残念ですがーーーー。」
と答えたまま泣き入って、少しの間、声に咽(むせ)ぶだけだったが、又思い直すことが出来て、

 「自分の身よりも、貴方に苦しみを掛けるのが何よりも、辛いのです。此の後とも、長く貴方に恨まれて居るかと思えば、自分の心を慰める所が有りません。どうか唯一言、許す、恨みはしないと仰って、そうしてお分かれにして下さい。」

 春「何で貴女を恨みましょう。唯、今も云う通り、他人の生涯の愛を得るより、貴女の唯(ただ)一時の愛を、有難いと思います、許すの許さないのと云う様な事柄は、少しも有りません。けれど、もうどうしても、お分かれにする外はないでしょうか。」

 清「ハイ、その外は有りません。昨夜も独り考えまして、余り辛いから、秘密にも構わず、分かれないで済む事にしようか、とまで思いましたが、それでは偽りに当たりますから、冥世(あのよ)で何の様な目に逢うかも知れません。

 それよりは、ここで辛い思いをして、守る丈の道を守れば、永遠限りないとやら云う、天国がありましょうから、ハイ私は次の世を楽しみに、此の世だけは苦しみます。貴方のお言葉とやら聞きます通り、黙って苦しみ、黙って死ぬ覚悟です。」

 春「成るほど。それが私の言葉とは云え、戦争などの場合いと違い、どうして此の苦しみが、黙って耐(こら)えられましょう。それでは清子さん、是から私一人で、父上の所へ行き、何の詳しい訳も言わずに、唯だ此の縁談が出来なんだとのみ述べて、そうして私は二度と貴女の方を、振り向く事が出来ない身と成って、立ち去るのですか。」

 清「ハイ二度と振り向く事は出来ません。父もきっと立腹して、私を恨みましょうけれど、それも致し方が有りません。」
 春「では今が生涯のお分かれですネ。」
 清「ハイ生涯のーーーー。」
と言い掛けて後の語は涙に消えた。

 春「何時まで未練を言っても、無益では有りますが、唯だ一つのお願いには、若しも‐ー他日ーー友達の助力が、無くては成らない様な、場合でも有ります時には、何うか私をお招き下さい。ーーイエ、もう貴女の秘密が、何で有るかと言う事は、問いも怪しみも致しません。

 問うて打ち明けられる様な秘密なら、今までに打ち明けて下さった筈ですから。ハイ問いも怪しみもしませんから、私をお招き下されば、きっと駆け付け、貴女の為に人間業で出来る事なら、必ず私が致します。」

 清「ハイ、その様な時には、貴方を招き、必ず助けて頂きましょう。」
 春「それから、若し私が死に際と成った時は、貴女を迎えに寄越しますが、貴女は私に暇を告げさせ、臨終の安心をさせて下さる為、枕辺まで来て下されましょうか。是だけの約束を得れば、もう何も彼も断念ます。」

 清「ハイその時にはきっと行きます。」
 春「そうして、時々は手紙を、イヤ、それも一年に一度ぐらいです。唯だ無事に生きて、何所に居ると言う事だけを書いて、差し出しますが、受け取ってお読み下されましょうか。」

 清子は少しの間考えて、
 「イイエ、手紙は遣り取りをしない方が好いと思います。何うか私を忘れるようにお勉め下さい。忘れさえすれば、必ず私よりも更にお気に召す方が出来、今日の悲しみを忘れましょう。

 私は自分が、貴方の生涯に道連れとなる事の出来なかった代わりに、何うか私より、行き届いたお道連れの出来るように、只管(ひたす)らそれのみを祈ります。それですから、この場限りで、全く見ず知らずの他人も同様と為る事に致しましょう。」

と最後までも、初めの決心を変えずに語らったのは、勇気のほどを感ずるに余りあれど、全く身に在る丈の、勇気を絞り尽くしたとも言うべきか。ここに至っては、最早や堪(こら)える事が出来ない色が顔に現れ、

 今にも絶え入りはしないかと、気遣(きづか)われる程になったので、春川も此の上に、何よりの親切は、唯だ早く此の所を切り上げるに在るだろうと思い、心に分かれの意を呼び起こすと、清子も同じ心持ちで、手を差し延べ、

 「左様なら、春川さん」
と早や告別の言葉を述べた。



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