巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime31

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.20

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         第三十一回‎ 「籃(かご)の中に」

 山番の差し出した紙切れを、清子は受け取ろうとせず、非常に冷ややかな目を以て、唯だ何故にこの様な紙切れを差し出したのかと、怪しむ様に彼の顔を見詰めると、彼は日の光に逢う霜の様に、気位の高さに打たれて、自然と眼を垂れ、殆んど何もすることが出来ない様子だった。

 初めに、幾分か脅迫の意を含んで居るかと疑われたのに引き替え、その力ない様子が殆んど気の毒そうに見えたので、清子は一種の憐れみを催し、無言で手を差し延べ、その紙切れを受け取った。

 憐れみは少しの間で、又忽(たちま)ち腹立たしくなり、たとえ彼が嘆(なげ)き訴えようとも、将(は)たまた怒って脅迫しようとも、受け取らなければ好かったのにと、我が心の弱いのを悔んだが仕方が無い。

 家に帰る道々も、幾度か此の紙切れを、破り捨てようかと思ったけれど、兎に角、中に何事を認(したた)めてあるのかを見る迄は、捨てる事もならず、そのまま一同と共に家に着き、自分の部屋に退くと同時に開いて読むと、

 「妻清子よ、私は長く御身を尋ねて、ここに漸(ようや)く廻(めぐ)り逢うことが出来た。此の家に山番として留まって居るのも、一つはこの様な交際の広い家柄なれば、何時か御身が来る事も有ろうかと思った為である。

 私にとって、世界にも替え難い、貴女の美しい顔を見た事は、実に今までの辛抱甲斐が有った事である。清子よ、私は人の居ない所を選ぶわけでは無いが、人の居ない所でなくては、貴女が困るだろうと察するだけだ。明夜の九時、森の中に来て欲しい。私は今日貴女が通った、山の入り口で貴女を待っている。此の言葉は貴女の所天(おっと)の言葉である。」

 命令にも似、又願いにも似ている。清子は読み終わって、悔しそうに揉(も)み潰し、此の言葉に応ずるべきか、応ぜざるべきかと考えるに、既に生涯を奪われた上、何で再び彼の手の中に落ちる必要があろうか。

 彼、如何なる仇をも為すなら為せ。ここで彼の意に従ったとしても、私が幸福となる筈もない。どうせ不幸に終わらなければならない身ならば、何処までも自分を支え、彼をして、最早や私に縋(すが)るべき手掛りが、無いことを思い知らせ、

 その上で私が、如何(どれ)ほど彼を恨んで居るかをも、知らせてやると、腹立ちの余りに思い定め、此の翌日も翌々日も、外には出ず、客室や食堂には出て行って、誰にも何気なく交われども、
 「久しく閉じ籠って居た身なので、天日の光には堪え難い。」と称し、庭の面(おもて)には一足も踏み出さない様にして居た。

 しかしながら、この様な間にも、若しや彼が破れかぶれに、何か乱暴な手段を以て、私に返事を促す事にはならないかと、少しも穏やかな心になれず、少しの物音にも驚かされる状態だったが、

 四日目の朝になり、清子が客一同と共に食事を終え、ちょっとの間、縁側に立っていた時、此の家の下僕(しもべ)の一人が、提げ籃(かご)に、数多の草花を盛って、主人戈田(ほこた)の前に来て、

 「此の草花は、山番が、河畑令嬢のお頼みで、朝の極美しい所を、取り集めたのだと申します。届けてくれと托されました故ーーー。」
と云って差し出すのを、戈田は受け取って、非常ににこやかに清子に向かい、

 「イヤ草花の美はレイトン園が英国第一だと申しますから、毎朝摘ませて差し上げましょう。」
と言って、更に清子に渡そうとした。清子は山番と聞いて、扨(さ)てはと思い、顔の色がを変えたけれど、主人の差し出すのを拒(こば)みもならず、

 山番にその様な頼みはした事は無いとも言いかねて、仕方なく受け取ると、彼の下僕は更に、
 「花の名前や説明は籃(かご)の中に認(したた)めてあるそうです。」
と言い捨てて立ち去った。

 籃(かご)の中に認めてありとは、益々その心を知るに足れば、清子はその籃(かご)を持ったまま部屋へ退き、草花を取り出すと、底に果たして書付けがあった。開いて読むと、

 「妻よ、私は恨みはしない。貴女が何の返事もしないのは、尤(もっと)もの事だからだ。しかしながら、妻は妻である。夫の請(こ)いを無碍(むげ)に斥けることをしないで欲しい。

 私は実に貴女の生涯を誤らせた。此の罪は死すとも消えない。此の上、更に又貴女に嘆きを加えるのは、私にとって耐え難いことなので、私は決して二人の間に存する秘密を、世間に叫び立てようとはしない。

 しかしながら悲しい。妻よ、私と貴女との婚礼は、最早や貴女も実際を取り調べたことと思うが、私の本名を以てした者なので、少しも式に欠けた所は無く、充分に有効である。如何にしても、此の後の両人の間を、相談しなければならない。

 又私の身の上に就いても、相談しなければならない。貴女の美しい顔の光は、私にとっては天国である。此の罪深い男、そうです、朝に夕にも、悔恨の念が、絶える事の無い此の憐れむべき男に、少しの間でも、天国を味わわせて欲しい。

 私の一身は、如何様にも貴女の意の儘(まま)に従う。清子よ、私を憎まないで欲しい、憎くても私の偽りは、全く貴女を愛するが為で、何も彼も打ち忘れて出た事を察して欲しい。

 清子よ、私を恐それる事は無い。勿論私は絶望した身なれば、此の上、貴女から拒(こば)まれるようであれば、如何(どの)ような事をするか分からないが、貴女が私に、唯だ一回の面談を許せば、その他の事は唯だ貴女の命じるが儘にする。来て欲しい、私の為よりも貴女の為に来て欲しい。」
とあった。

 文言の非常に穏やかなことから察すれば、或いは彼、真に悔い改めて、幾何(いくら)か、私の為を思っているかも知れない。或いは相談次第で、秘密を秘密の儘に伏せ、私の生涯を安らかにする為め、綺麗に分かれる事を、承諾するかも知れない。

 どちらにしても、全く我が夫と名の附く彼を、何所までも無視しては、却って事を面倒にする元になるかも知れないので、兎に角、一度だけ逢って、彼が何事を言い出すかを聞く事にしよう。

 逢うとしても、夜陰に森にの中に行っては、若し人に見らた時、弁解も難しいので、寧ろ今出て行って、逢う事にしよう。森の景色を看取り図に写す為と云えば、私が森の中を徘徊しても、誰か怪しむ者があるだろうかと、漸(ようや)くに思いを定め、絵の道具を携え持って、森を指して出て行った。



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