巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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yukihime36

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.11.4

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         第三十六回‎ 「きの字の附いた女の名」

 憎い所天(おっと)と恋しい他人との間に立ち、清子は片時も心の平穏を得ず、取り分け差し迫って気遣わしいのは、所天(おっと)との再度の対面である。

 明日がその対面の日なので、今日の中に考えを定めて置かなければならないと、様々に心を砕いたが、たとえ彼が、何れの国に立ち去ろうとも、我が所天(おっと)であることに違いはないので、我が身に幸いの来る時は、ある筈が無いけれど、だからと言って、此の国に居られては、我が苦しみは、少しも休まる時は無い。

 私が一言、彼の罪を許すとさえ云えば、彼は思い残す事なく、唯一途(いちず)に我が意に従って、如何(どの)様にも身を処置しようとの事は、既に先日逢った時の言葉に明らかなので、好し、好し、彼をどこかに立ち去らせて、再び我が目に、その姿が入らないようにし、我が耳にその消息が聞こえないようにして、互いに忘れ忘すれられる事にしよう。

 そうだ旅費を与えよう。他国で身を定めるのに足る丈の資本をも持たせて遣ろう。是だけの事をさえなせば、妻ではない私が、所天(おっと)にして所天では無い彼に対する私のつとめは、終わりとして好いだろう。

 厳重な神の目から見給うとも、私の所為に、少しも咎めるべき所は無いだろう。その通りだ、その通りだと、漸(ようや)くに思い定め、そうして翌日になったが、愈々(いよいよ)彼に逢う日かと思うと、思い定めた身ながらも、徒(いたずら)に気が後れて、部屋から出る力も無い。

 だがそうは言っても、空しく気に病んで、くよくよしても仕方が無いので、先ず食事を終えての後にしようと思って、強いて何気なく装い、食堂に入って行くと、客一同は既に揃って居て、唯だ私と主人戈田(ほこた)とが欠けるだけだった。

 戈田は一度も客を待たせた事は無かったのに、今日に限って、何故に待たせるのだろうと、窃(ひそか)に怪しむ人もあったが、そのうちに彼は入って来て、一同に挨拶をして、席には来たが、顔の色は非常に青く、何事か気に掛る所がある様子だった。

 それで客一同も、自ずから静まって、話も小声で受け答えするうち、客の中の一人は、此の静かな一座に、活を入れようとする様に、一同に打ち向かい、

 『今朝ほど、背後の山で山番が一人、射殺されたとか云う事を聞きましたが、本当の事でしょうか。』
と問い出した。山番の一人と聞き、清子は非常に胸騒ぎっがしたが、なお一層落ち附いて、聞いて居ると、主人戈田(ほこた)は之に答え、

 『実は食事中ですので、皆様のお耳へは入れないようにしようと思いましたが、既にお聞き及びならば致し方が有りません。不幸にも全くの事実です。』
 一人「それは何と云う山番ですか。」

 主人「先日もお話申した学者です。下林三郎と云う者です。」
 扨(さて)は、我が所天(おっと)が射殺されたのかと、清子は呼吸も止まるほどの思いをした。主人はそうとも気付かず、語を継いで、

 『全くの怪我です。鉄砲を携えて、林の中を見廻って居るうち、引き鐵(がね)が蔦(つた)に搦(から)まり、自然に発火して、自分で自分の肺の一部を射抜いたのです。到底助かる見込はありません。まだ呼吸はして居ますけれど。

 又一人「先刻私が聞きましたところでは、その男は何か秘密でも有る身の上か、頻りに女の名を囁(ささや)いている相ですが。
 主人「或いはそうかも知れませんが、今私が行った時は、何事をも言わず、静かに眠りかけて居ました。それで私は帰って来たのです。」

 前の一人は自分の早耳を誇ろうととする様に、
 「イエ、私は他の番人から聞きました。善くは聞きも取れませんでしたが、何でも喜久子とか公子とか、『き』の字の附いた女の名を囁(ささや)き、そうして何うか死ぬ前に、もう一度顔を見せて呉れとか、全く己が悪かった、許して呉れなどと云って、その度に口から血を吐く様は、実に傷(いた)わしくて、見て居られないとの事でした。」

 食事中の話としては余りに無惨な事柄なので、他の紳士は目を光らせて制し止めようとはしたが、此の時『苦(あっ)』と叫んで悶絶したのは清子である。

 この様な話に、神経の弱い婦人が、気を失う事は随分例のある事とだと云うことだが、特に清子は日頃外出も多くはせず、多病の身ではないかと疑われて居る程なので、誰もが此の気絶を見て、別に理由のある事だとは思わず、唯だ我れ先に介抱しようとして、清子の傍に馳せ集まり、間もなく清子を、その居間に運んで入れた。

 幾時間の後、清子は全く我に返り、身辺を見回すと、継母友子が唯一人附き添って居て、部屋の戸も堅く鎖(とざ)してある様子なのは、きっと私に秘密のあることを察し、日頃の綿密な注意と親切とから、一切の他人を退けた者と知られる。

 しかしながら清子は、最早や介抱せられるにも及ばない。独り落ち着いて考えたい場なので、やがて友子をまでも断って、部屋の中に只の一人とはなったが、思えば所天(おっと)三郎が、口から血を吐きつつも、まだ私の名を呼んだとは、彼がその清らかならぬ心の中に、どれほど切に私を愛しているかを知ることができる。

 とりわけ許しを乞うて止まないのは、深く後悔して、善心に責められるのをを知ることが出来る。之を思っては只管(ひたす)ら彼を恨んだ今までの怨みは少し忘れて、唯だ憐れみの念に襲われた。

 たとえ悪人は悪人にしても、此の世にあって、永く悪事をなしたなら許し難くもあるが、死に際に真心を現して、真実許しを請うているのに、それをさえも許さないと言うのは、余りに邪険なる振る舞いにならないか。

 況(ま)してや、詐欺にもせよ、私と共に神の御前に立ち、婚礼の式をなした者なれば、私としては、此のままに捨てて置くべきでは無い。尋ねて行って、彼れの末期を安らかにしようと、流石は本来慈悲の心に富んだ質(たち)だけに、非常に適切に思い定めようとすると、此の時兼ねて我が家より連れ来たれる侍女一人、戸を開いて静かに入って来て、一封の書を示し、

 「之は死に掛けて居る山番が、貴女様へ渡して呉れと言って、同じ番人の一人へ頼みました物だと申します。その人から私へ渡されましたが、多分はお慈悲に義捐(ぎえん)を願う無心状だろうと思います。倉姫様の許へも同じ無心が来たとか聞きました。」

 清子は無言で受け取りながら、侍婢の立ち去った後で封を開くと、読み分け難きほど力なき手蹟で、
 「来て許すとの一語を聞かせよ。聞かないうちは死ぬことさえも出来ない此の不幸不運な所天(おっと)を憐れめ。」

とのみ記してあった。何というその心のかなしいことか。清子は降り落ちる涙を払い、そこそこに黒い外被(うわぎ)を身に纏って、部屋から外に立ち出ると、時は早や夜に入って、月も無く空も曇り、暗いことと言ったら、言いようがなかった。

 何所に行ったら、彼れが臥(ふ)せている番小屋に、達することが出来るのかも知らないが、唯だ山の方を指して、足に任せて走って行くと、少しの間に道も無い林の中に迷い入り、行けば躓(つまづ)き、進めば倒れ、どちらを指して好いか分からない。しかしながら更に怯(ひる)みもせず、心に神の助けを念じて、只管(ひたす)ら急ごうと身を藻掻くと、此の時何処からか立ち現われた人影があった。

 逃げる間もなく早や清子の手を捕らえて、
 「清子さん、此の夜中に何所へお出でです。」
 声は確かに春川鴻が声である。清子は驚いたが仕方が無い。
 「お放し下さい、急いで行かなければならない所があります。」

 春「イヤ物騒な森の中を一人で貴女を遣る事は出来ません。私がお供しましょう。何所へお出でです。何処へ」
 清「どうかお聞きなさらずにお放し下さい。」
 春「イイエ、何の様な事か知らないが、私へお隠しなさる事は有りません。艱難(かんなん)には相救う約束をしたではありませんか。仰(おっしゃ)らなければ、猶更遮(さえぎ)らなければなりません。如何に争うのも仕方が無い。清子は殆んど狂気の様で、

 「ハイ、所天(おっと)の許へ行くのです。死に際の所天を救いに行くのです。お放しください。」   
 春「エ、エ、所天(おっと)。」



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