yukihime6
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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第六回 「頬笑む事が有ります」
若し世の常の女ならば、この様な際には、何事だろうと怪しんで、多少は様子を伺う筈なのに、清子はその様な、はしたない振る舞いを好まない。
他人の事を徒(いたずら)に知り度がり、差し手がましく問う様な事は、つまりは下士(げす)の勘ぐりの行いで、我が身分に背く様に思えるので、何事か起こって、宿の者等が右往左往する様子を、知らぬ顔で見流して、我が部屋へ上って行こうとすると、帳場の辺りで、番頭が非常に腹立たしそうに、
「実に此の店の信用に取り非常な損害だ。」
と言う声が聞こえ、之に和して雇人等が、
「そうですとも、此の店へ警官が踏み込んで捕縛するとは、後々の聞こえに関わります。」
と言い、
「実に見掛けに寄らぬ悪人では有りませんか。」
などと言う声も聞こえる。扨(さ)ては雇人の中にでも、悪人が居て、捕縛された者に違いないと、唯だ軽く思い做(な)して、二階に上り、我が部屋に行って見ると、千草友子と稲葉夫人とが何事をか打ち語らって居る所である。
友子は清子の姿をを見て、少し叱る様な口調を帯びて、
「貴女は先ア、早朝から何処へお出ででした。二時間も三時間も、一人でお出歩きするものでは有りませんよ。」
と言うのは、全く見かねての事に違いない。
しかしながら清子は腹の中に、
「今に見よ、我が夫、野下(のげ)三郎がここに来たならば、婚礼の事を打ち明け、一泡吹かせて呉れよう。」
との心が有るので、何時もの様には腹も立てず、口返事(くちごたえ)もせず、唯だ台の上にある置時計を眺めて、最早や野下の来たるべき筈なのにと思うばかり。
友子は言葉を継ぎ、
「ナニ、それはもう、何も彼も好く心得ておいでなさる貴女の事ですから、別に心配はしませんけれど、お出で先さへ知らずに居るとは、余り私が不行き届きの様で、貴女の父上へ済みません。」
済まぬ筈である。その不行き届きを思い知らせる為、此の通りここに立って居るのだ。人の事を彼是れ言うより、自分が思い知らされて驚かぬ用心が肝腎だなどと、腹の中で嘲(あざ)けっている様子が、自ずから様子に現れ、何となく楽しそうに、
「私が何所に行って居たかは、今直ぐに分かりますよ。」
言う中にも野下が来ない事が不審に耐えず、十一時には来る約束であるのにと、再び時計を眺めると、既に十一時半にも近い。幾等遅くても、もう一分とは経たない中に、来るに違いないと、又密かにほほ笑むと、老練なる稲葉夫人は、二人の間に何とか口を出す場合だと思う様に、
「ですが千草さん、今朝清子さんが居なかったのは、却って幸せと言うものです。居たならあの恐ろしい騒ぎを、御覧なさらねばならない所でした。世間の事を見尽くした私でさえ、アレほどの気色の悪い事に逢ったのは初めてです。」
と言い、更に清子の顔を見て、
「貴女は何も御覧なさらないから、その様にほほ笑んで居られますが、外の客人は、皆顔を顰(しか)めていますよ。」
清子は何の事柄だろうとも怪しまず、唯だ我が身の楽しさをのみ思い、
「ハイ、私はほほ笑む事があるのです。」
と言う。抑々(そもそも)友子の親切なる言葉には、返事をしないで、他人にこの様な面白気な事を言うのは、殆んど友子をば有るか無しに扱う者であるが、友子は怒ろうともせず、怒れば猶更ら、清子の強情を増すだけだと見て、却(かえ)って打ち解け、
「そうですね。今朝はここに居らっしゃらなくて、あの様を見なかったのが却って好かったかも知れません。」
と、叱った言葉を取り消す様に言うのは、清子に一目も二目置いた行動で、心の中は察するに余りある。
稲葉「そうですとも、若い方に、あの様な有様を見せるのは、可哀そうです。私は余りの事で腹が立ちますよ。此の宿へ来て、誰よりも先に私を欺いてサ、柳園伯爵夫人のパーティーでお目に掛かったなどと言って、そうして名前まで偽って、野下(のげ)三郎とは、ホンに飽きれた悪人ではありませんか。」
野下三郎の名に、扨(さ)てはたった今、婚礼を済また許りで、私がここに待ち受けている、我が所夫(おっと)の事かと、清子は自ずから我が耳を疑う程に驚き、顔の色を火の様にしたが、友子は気も附かず、
「イイエ、私は初めてアノ方が貴女へ言葉を掛けた時から、何だか偽り者だと思い、決して気の許す事の出来ない人だと清子さんにも話しました。ネエ清子さん。」
清子は返事をしようにも声が出ず、我が立つ足の、腰より下が
、悉(ことごと)く力を失い、身を支える事が出来ず、僅かにテーブルの一隅に手を付いて支え、
「野下さんが何うかしたのですか。」
問う声も我が声とは思われない。
稲葉「何うかしたどころではありません。先刻散歩から帰った所を、今朝ロンドンから出張して、待ち受けていた捕吏(ほり)に
捕縛せられました。」
清「エ、エ」
と驚き叫ぶ様が、余りに異様にして、全く打ち倒れるかと疑われるほどなので、友子は驚き立って、背後から抱き留めながら、
「イイエ、貴女は此の様な事を、お聞きなさらない方が好いのです。少し次の間でお休みなさい。余程神経に障(さわ)ったと見え、お顔の色も並大抵では有りません。」
稲葉夫人も、
「ホンにそうです。聞いただけでさえ、是ほどですから、現場を見たなら何うでしたろう。本当に外へ出ていらしったのが幸いでした。」
清子は悟られてはならないと、必死の思いで我が身を制したが、非常に我の強い質(たち)なので、漸(ようや)く、それほど心配そうには見えないまでに身を立て直し、
「ナニ私はそう驚きはしませんよ。アノ人がどうかしましたか。」
何事が有っても、詳しく聞き取らなければならない。しかしながら、友子も稲葉夫人も再び口を開こうとはしなかったが、前から隣室に逗留する一夫人が、周章(あわただ)しく入って来て、
「到頭アノ悪人が引き立てられて行きましたよ。貴女がたは、最後まで御覧為さらなかった者だから、大事な所をお見落としなされました。」
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