巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

鉄仮面21

鉄仮面  

ボアゴベ 著   黒岩涙香 翻案   トシ  口語訳

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          第十二回                      

 ずるがしこさにかけては、誰にも負けないと言われているナアローのことなので、ヒリップの意気込みが益々無くなって来たのを見ても、全然驚く様子も見せず、「今に見ろ手を合わせて俺様を拝み、どうかどうかと泣いて頼むようになるから。」と心の底で嘲(あざけ)りながら静かにポケットから、何か書いてある一枚の紙を取り出し、「ヒリップさん、私の雇人だか、ルーボアの雇人だかこれを見て判断し給い。

 ルーボアは十分な満足をさせずに人を使うような、そんなけちくさい政治家ではないヨ。」ヒリップは何だろうとその紙を受け取って見て見ると、これは何と陸軍大臣ルーボアが署名した正式な辞令書であった。

 「国家に対して尽くしたその方の忠義を賞し、その方をフランス国陸軍大尉(たいい)に昇すものなり。」との文字を書き、宛名と日付は空欄にしてあった。ヒリップが読み終わって、驚くのを見澄ましてから、「どうだ、ヒリップさん、ルーボアは実に大政治家だろう。私に適当な人物を雇い入れさせるために、この様な宛名の無い辞令書を渡して有るのだ。

 陸軍の大尉(たいい)と言えば一生鉄砲をかついでも、昇ることができない人だって幾らでもいるんだ。その地位を誰にでも好きな者に与えよと言うのだから、ずいぶん気が大きいではないか。誰でも私の目にかない、雇われようと承諾すれば、私がすぐにこの辞令書に、その人の名を書き入れてルーボアに渡すのだ。そうすればその人はその時からすぐに陸軍大尉と言うものだ。どうだ君、陸軍大尉になる気はないか。」

 これを聞き、ヒリップはたちまち打って変わって「どうか宜しくお願いします。私の身に出来ることなら何でも致します。弾丸雨あられの中をくぐるのは言うに及ばず、私の命は今日からルーボア様に捧げます。」ともう大尉の地位に付いたように勇み立ち、顔のくずれるのも気が付かないのは、永年出世の糸口を求めて、卑しい仕事に辛抱して来た人の身に取っては、無理もないところだろう。

 ナアローは更に落ち着いて「イヤ、自分の勤める用向きも聞かずに、そう喜びなさんな。生やさしい仕事では、いくらルーボアの心が広くても、人を陸軍大尉に登用したりはしないから。」「用向きはどの様なことでもかまいません。」

 「その決心なら結構だ、私も安心して言うが、この頃、国王とルーボアを恨むものが諸国に隠れ住んで、フランスを覆(くつがえ)すと言う容易ならぬ陰謀を企てているのだ。」「なる程」「その陰謀を今の内に妨害して、起こらないうちに、もみつぶすと言うのが君の役目だ。」

 「エ、エッ」「イヤサ、そう驚きなさんな、もみつぶすと言うとたいそうに聞こえるが、仕事は君にピッタリだ、実はネ、その謀反人どもの連判状を初め、謀反についてやり取りした大事な書類が、ある手箱に入れられて、何処かに隠してあると言うのだ。」

 「なる程」「それで、その隠し場所と言うのは、賊の隊長の誰それの妻で今年二十歳か二十一位のある美女が知っている。君はその美女に近づき美女の心をとろかして、その手箱のある場所を聞き出してもらいたいのだ。」 ヒリップの顔は又少し曇って来て、「ですが、その美女にどうやって近付きますか」

 「それは何、私がその美女の夫宛に十分な紹介状を書いてやる。」「夫と言うのが敵の隊長ですね」「そうそう、その紹介状は私の偽筆で書きますが、この謀反の後押しをしているオランダ国王の晨筆(しんひつ)と同じこと、誰の目にも決して見破られる恐れはないから、君はオランダ国王の腹臣と言うつもりで、賊の隊長に取り入り、巧みに猫を被って、一方では隊長の信任を得て、隊長が何月何日に、何処の間道を通ってパリへ忍び込むのかも、聞き出し給い。」

 「その間道もたいていは分かっていて、政府でもすでに伏兵を配置して有るが、賊どももなかなかのさるものだから、どの様に又その道順を変えぬとも分からぬ。そうして、一方では又、その女房なる美女の心を溶かして今の手箱も盗みだすのだ。」 事は非常に難しいが、己の身の出世には、どの様な困難も乗り越えようと決心したヒリップなので、少し考えた後で、「よろしいやりましょう」と答えた。

 「よしよし、そうしていよいよ君がその箱を盗みだしたら、君がいままで主人としていたオリンプ夫人も、その重要な一味だから、第一に夫人は斬罪に処せられるのだよ。これは今から君が承知していなければんらぬ。」と最も大変な事を一番最後に出すのもナアローの戦術なのだろう。

 欲に目の無いヒリップだが、さすがにこれには少し驚いたようで、すぐには返す言葉も出ず、苦々しい顔で少し考えていたが、「それならそうと初めから言ってくれれば良いのに」と独り言のように言った。

 「なに、本来ならこれだけは隠して置くところだが、仕事にかかってから誰かにこれを聞き出し、急に君の心が鈍っては困るから今知らせて置くのだ。なる程、君のためには永年可愛がってもらった大恩のある夫人だろう。けれども今は国家の賊だ、国家のために個人の恩を捨て、情を捨てるのは忠義の本分と言うものだ。」と、柄にもない忠義沙汰はヒリップの耳には効き目はない。

 出世の為は為だったが、夫人が居たから生きてもいたし、夫人がいたからここまで来れた。その情を思い、その上この後再び夫人が世に出ることも有ろうと思えば、欲得の上でもどちらが良いか分かったものではない。ナアローはまだ損得勘定をしているなと見て又あざ笑い、

 「まだ夫人の事を考えているとは、君もよほどおめでたい男だよ。君は夫人が町外れのある宿屋に隠れている、と言うことをまだ聞いていないのか。あの宿屋には夫人の情夫が隠れているのだよ。情夫が怪我をしたものだから、夫人は君を振り捨てて、その元へ逃げて行き、そばを離れず介抱して居るんだ。それを君が知らずに遠慮するとは間抜けにも程があるぜ。」 

 薄情の男でもこれを聞いては、心の中は面白くなく、顔に腹立たしい色を浮かべて、「情夫とは誰のことです?」「さっき言った隊長の事さ、ちょうど君と同じ年頃の好男子で伯爵アルモイス・モーリスと言うんだ。」 

 モーリスの顔は知らないが、モーリスと夫人はしばしば手紙のやり取りをし、特にその手紙については秘密にしている事に気が付いていたので、今はこの言葉を疑わず、「おのれ」と言う様子を現したので、ナアローはここぞとばかりに、
 「モーリスが君の恩人を盗んだのだから、君も又モーリスの妻を盗むのが当然の意地ではないか?」、この一言は忠義の説よりなお効き目を現した。

 ナアローは効き目に付け込んで、「それに、その妻を盗むがために陸軍大尉に出世し、その上三十万リブルの賞金がもらえるし、いやと言えば今まで僕の口から国家の秘密を聞いたのだから、君はルーボアから危険な人物と思われて、生涯バスチューユに投げ込まれて、出られなくなるのが落ちだよ。」

 「さあ、なんでも君の好きな方を選び給え。」と、とどめを刺して来たが、ヒリップにはどうして、「いや」が言えるだろう。「よろしい、十分にこの役目を果たしましょう。」と十分に決心をして引き受けた。



つづき第13回はここから

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