巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

鉄仮面26

鉄仮面  

ボアゴベ 著   黒岩涙香 翻案   トシ  口語訳

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          第十七回                 a:1643 y:1 t:1

 バイシンはオリンプ夫人の前に腰を下ろしながら、左右にとりちらかしてあるヒリップの道具類に目を注いで、「貴方はお心が変わりましたね。」と静かに言って夫人がどう返事をするかを待っていると、夫人は何の事か分からないと言うように、「心が変わったとは何の事ですか。」「いや、今ではルイ王よりヒリップを大事とお思いなさっているのですね。」

 夫人は少しも驚かず「今更言われるまでもない、ルイはただ憎いばかり、どうして彼をヒリップのように愛せようか。」「そうでしょうが、ヒリップはもう貴方の手には帰りませんよ。」 夫人は初めて顔色を変え「何を言うの、ヒリップが私の手に帰らないとは、やっぱり彼はバスチーユ大監獄にでも入れられたのだろうか。」「いや、そうでは有りませんが、彼は今はもう敵方の人間です。後でバスチーユ大監獄にも入れられるでしょうが。」

 「貴方にどうしてそんな事が分かるの? どうして?」「どうしてでも有りませんが、そんな予感がします。私の予想は今まではずれた事が有りまますか? 貴方がこの前旅行に立つときもこの旅行は危ないと誰が言いました?」「貴方が。貴方です。」「ですから、今度も私の言うことに間違いは有りません。ヒリップは敵方の者となり非常に危ない道を歩いています。剣の刃の上を渡るように一歩間違えば彼の命は有りません。」夫人は少しも疑わず「どうにかして彼を救う手だては無いだろうか。私はもう彼の為なら命もいらぬ。どうかバイシンの知恵で」

 「ではもうヒリップの為には国王ルイはいりませんか?」夫人はあたかも胸に釘でも打たれたように、ギクリとして返事も口につかえて出てこなかったが、しばらくして又、「ルイを憎いと思えばこそ危ない旅行もしたではないか。このように世間に捨てられて、ひと月でもふた月でも私がここに隠れていても誰一人訪ねても来ず、宮廷に儀式が有ってもオリンプだけには案内もこない。国王初め一同がもうオリンプ夫人と言う名前を忘れてしまったかと思えば、ルイも憎い、ルーボアも憎い、宮廷一同皆憎い。」

 「憎ければこそライソラやモーリスに心を寄せ、彼らがこの宮廷を転覆するのを待って居るのだ。その間にも側にいて心を慰めてくれるヒリップがいなければ、どうしてこの長い年月暮らせよう。栄華と言うのは名ばかりで、島国へ流されたのも同然な今日この頃、物を言い交わす相手も居なければ、ご機嫌伺いに来る者もいない。これ、バイシン、私の心も察しておくれ。ヒリップを救って私の側に返しておくれ。貴方の知恵でその工夫が出来ないと言うことはないでしょう?」

 恨みに狂い、愛に狂った夫人の心を察してはバイシンも無理とは言えず「いえ、今にも何かブリュセルから便りが来て、ヒリップの事も分かるでしょう。それまではどうしようも有りません、ただ待っているだけです。」「待っているとは何時まで待つの? 今までだってもう辛抱出来ないほど待ったのに。」「でもオリンプ様、便りも無いのにどうしたら良いですか?」と言いかけて又声を潜(ひそ)め、「ですがね、オリンプ様、どうも今度の事も、うまく行きそうも有りませんよ。」

 「モーリスが居酒屋でルーボアの手先に傷つけられ、計画の合図が食い違ったときから、味方の中に気が抜けて敵に心を寄せる者が多分出て来ていると思われます。なに、あのモーリスの熱心さはかえって前より増すでしょうが、先鋒隊の後からすぐ続いて来る同志が無ければ、あたらモーリスを打ち死にさせるようなものです。どうも、私は同志の気持ちの途切れが気がかりです」と女ながらも大局に立って情勢分析をする様子は軍師そのものだった。

 「でも、何を根拠にそのような気の弱いことを言うの?」「いえ、モーリスが怪我をしてから味方の動きが静かすぎます。先鋒隊がパリに入れば続いて旗を上げると言う各地の仲間が、もうこの事は失敗したものと、諦めているのではないかと思われます。それにルイの護衛と決まっていた夫アントインも退けられました。」「何ですと?貴方の夫アントインが宮廷から退けられたですって?」「はい」「それでは誰かーーー」「はい、誰か味方の中に宮廷に通じている者がいて、アントインには気が許せぬと言ったものと思われます。

 この様なことから考えても、もしやヒリップがナアローに雇われて、誰か味方の有力な者について秘密を漏らすような事になっているのではないかと疑われます。」夫人は椅子から勢い良く立って、せかせかと部屋の中を歩きながら「そんなことはない。いや、その様なことはない。貴方の予想に間違えはないと思うが、ヒリップが私の敵になって宮廷に密告するなどとは。」「いや、それがあるから彼の身が危ないと言うのです。」「もしそうならば私は彼を救ってやる。私の側にさえいれば決して敵に心は寄せまい。」と早くもバイシンの言葉を、本当の事実の様に思い込み、気をもむのも、普段からいかにバイシンが信用されているかを物語る。

 「貴方のご気質では何と申しましても、ヒリップをお見捨てにはなりますまいが、どちらにしろ実際に便りが有るまではどうしようも有りません。」と言う言葉が終わらない内に、入口のドアを開けてランプを持った一人の侍女が入って来て、オリンプ夫人に向い「ただ今、貴方様にご面会を願いたいと言う騎士風の方が参っております。」夫人はただ一言に「その様な者に用はない、返しておくれ」「私もそう思いご面会は出来ないでしょう。と言ったのですがなかなか聞き入れません。ブリュッセルから昼夜馬に乗り通しで駆けて来たとかで、可愛そうに馬も汗水になり今にも倒れるかと思うほどです。」

 ブリュッセルからの急使とはさては味方の注進ではないかと思い、夫人が眉(まゆ)をひそめているのでバイシンが側から「お会いなされば様子が分かります。ヒリップの事も必ずやこの使いが知っているでしょう。」「ああ、そうだ、すぐにここへ通しておくれ。」侍女はかしこまって退いたがこの急使はいったい誰だろう。

つづき第18回はここから

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