巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou47

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十七  X'節(クリスマス)の夜 一

 戎瓦戎は死人の数に入って以来、音沙汰が無い。勿論音沙汰の有る筈が無い。多分は藻屑と為って海底に眠って居るのだろう。
 彼が海に落ちた年の暮れである。一年に一度のX’節《クリスマス》の夜とは為った。X'節が何の様に祝われ、全国到る所が何の様に賑(にぎわ)うかは、殊更記す迄も無い。常に彼の気に掛かって居た少女小雪の預けられて居る、モントフアメールの様な田舎の駅場さえ、見世物や夜店が出て、相当に繁昌し、普段は多く客の無い軍曹旅館も四,五組の客を得た。

 抑々(そもそ)も此のモントフアメールと言う市(まち)は、山の半腹とも言うべき所に在って、常に飲料水(のみみず)が乏しい。町を離れて二十町(約2km)も行き、崖の下にある泉を汲(く)んで来るのだ。昼間は水を売りに来る者が有って、軍曹旅館なども、それを買って使うけれど、夜に入れば水売りが来ない。桶が空になれば、馬桶(ばけつ)を提(下)げて闇の中を、二十町汲みに行かなければ成らない。

 此の水汲みが、当年僅か八歳の少女小雪の役目であるとは、読者の既に知る通り。小雪は軍曹旅館の主人手鳴田夫婦に、全く下婢(かひ)として使われて居る。取分け母親華子から、仕送りの絶えて以来は、使い方が一層激しく、非常に痩せ細った身が、全く凋(しから)びた様になり、頬も落ち眼も凹(くぼ)み、美しかった母の面影に、似も附かぬ醜い容貌とはなって居る。

 此の様な少女が、肥え太った逞しい主婦に、追い廻されて居るのだから、近所の人が、象に小鼠が使われる様な者だなどと噂するのも、無理は無い。此の夜も小雪は、台所に在る卓子(テーブル)の下へ、身を縮めて蹐(しゃ)がみ込み、一方から洩れて来る灯光(あかり)に透かして、靴下を編んで居る。此の靴下は主婦(あるじ)の娘絵穂子(イポニーヌ)が穿(は)く物で、此のテーブルの下が小雪の居所である。

 テーブルの下ならば主婦の邪魔に成らぬ。叱られて鞭(むち)うたれる時、幾等か鞭を避けることも出来る。その様な事から自然と、ここが小雪の居間と成って居るが、外の者は身体が支(つか)えてこの様な所へ、入って居ることは出来ない。是で小雪の身が、何(ど)れほど小さいかも分かり、日頃何の様に扱われているかも推量せられる。全く小鼠の境遇である。犬猫ほどの待遇は決して受けて居ないのだ。

 靴下を編みつつも、小雪は時々何事をか考え込む様子である。八歳の少女が、心に心配事を持って居るとは、余り不思議な様だけれど、年は8歳でも苦労に老いているのだ。その考えて居る事は何事だろう。
 桶に水が少ないのが心配なんだ。毎(いつ)も夜に入って汲みにやられるのが辛いから、成るべく昼間から、水の切れない様に用心はして置くけれど、今日は余計に客があって、余計に水を使った。

 何うか今夜中、足りて呉れれば好い。此の上に若し水を要する事があっては、大変だと独り気遣(づか)って、絶え間無く主婦の挙動や店先の様子に目を配るのは、小さい心に何れほどの重荷だろう。
 主人手鳴田は帳場に居て、客を相手に頻りに昔、水塿(わーてるろー)の戦争に出た手柄話しをして、

 「私が少佐本田圓(まるし)」を助けた時の危険などは、確かに勲章の価値(ねうち)が有ります。」
などと言って居る。実に嘘ばかりだ。死骸を剥ぐ様な「戦場泥坊」に、何で勲章が下がる者か。彼の妻は此の話を小耳に聞きつつ、竈(かまど)に向かい、蒸し煮(しちゅう)を拵(こしら)えて居たが、余り料理が上手では無いと見え、鍋を焦げ附かせ、
 「オヤ水を差さなければ」
と言って、コップを取って水桶の所に行き、蛇口を捻じった。

 是を見て居た少女小雪はテーブルの下で戦慄した。もう助かる道が無い。愈々(いよいよ)水汲みに行かなければ成らない時が来た。けれど蛇口からは、僅かばかり水が垂れ、女主人の持って居る盃(コップ)が、八分目ほど満ちた。女主人は
 「オヤ水が切れた。」
と呟いたが、汲んで来いとは言わない。多分は言う暇が無いのだろう。直ぐに鍋の所へ引き返して水を差し、鍋の中を掻きまぜた。

 此の時馬屋の方から、客の一人が来て、
 「何うだろう。今夜の暗さは、市(まち)は夜店の灯りが有って、さほどにも思わないが、裏へ出ると真の闇だ。馬も恐(こわ)がって歩く事が出来ないワ。」
と言った。小雪は之を聞いて又身震いした。此の上に若し一人でも客が有れば、何うしても水を汲みに行くのは逃れられない。馬さえも恐がる闇に、木の中の細道を潜り、崖の下まで行くことが出来る者か、

 今の客は又言った。
 「内儀(おかみ)さん、内儀さん、未だ俺の馬に水を遣って無いのだぜ。」
 愈々小雪の運は尽きた。





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