巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou64

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十四  何者の屋敷 一

 小雪が見上げて居る間に戎(ぢゃん)は、攀(よ)じ登って、また攀じ登り、何やらこうやら塀の絶頂に上った。
 塀の内には何の様な運命が待って居るのだろう。塀の外は、蛇兵太の引き連れる一隊の捕吏(とりて)が一歩一歩近づくのみだ。
 「小雪、小雪」
と戎は塀の上から囁いた。
 「サア、此の縄を両手で確(しっか)と持て、そうだ。そうして顔を外の方へ向けるのだよ。」

 小雪は命ぜられるままに縄に縋(すが)った。直ぐに其の身は空中に吊り上げられた。縋る手の力は弱くとも、脇の下を縛られて居るのだから、落ちはしない。先ず無事に塀の上に達した。
 戎は小雪を抱いて塀の内側を見降ろしたが、ここは外側よりも地が低く、塀の頂辺(てっぺん)が二丈に余る高さと為って居るから到底飛び降りる事は出来ない。けれど幸いに塀に沿って高い木が茂っている。戎は直ぐに塀から木の枝に移った。

 真に際どい所であった。二人の体が木の葉の茂みへ隠れると殆ど同時に、蛇兵太が塀の外に来た。彼が部下を叱る声が雷の様に聞こえる。
 「ナニ、此の町の出口出口に番卒を立たせて有るのだから、外へ出る筈は無い。必ず路地の中へ潜んで居るのだろう。サア捜せ、捜せ、路地は皆行き止まりだから、袋の中も同じ事だ。」

 戎は此の声を聞きつつ樹の枝を伝い、遂に大地へ辷り下った。
 抑(そもそ)も此の塀の内は、何者の屋敷だろう。荒れ果てた様な広い地面に、幾棟か古い大きな家が立って居る。けれど四辺(あたり)が寂(ひっそり)と静まって、人の住む所とは思われない。聞えるのは、唯塀の外の捕吏(とりて)の足音だ。時々は剣が塀に触れる様な音もする。

 大勢がソレ右、ソレ左と叫ぶ様な声もする。勿論聞き分ける事は出来ないけれど、その声の中で、最も高いのは蛇兵太のである。戎は未だ生きた心地はしない。小雪を背に負い、塀の下の樹の影を徘徊したが、少し離れた所に物置かと思われる建物が有る。先ずその中にでも入らなければ、小雪がさぞ寒いだろうと、やがてその所へ行って見ると、壁さえも無い吹き払いの荒れた小屋である。

 ここまで来ると、塀の外の物音は最早聞こえない。此の先を何するかとの思案は、少しも定まらないけれど、先ず小雪を背から下ろして、大地の上に立たせた。折りも折とは此の事だろう。恐ろしい蛇兵太の声の代わりに、何処からか知らないが、戎と小雪とをして、思わずも首垂れて地上に平伏させる様な声が聞こえた。雲の間からでも洩れて来るのだろうか。譬(たと)え様も無いほど優しい声で、天帝の徳を頌(しょう)《文章に綴って褒め讃える》する讃美歌である。

 幾人か幾十人のか、節を揃えて合唱して居る。たとえ天津乙女《天女》の歌でも、こうまで美しくは聞こえないだろう。確かに年若な女達が唱(うた)うのである。遠磯に打つ波の様に空中に響いて、縹渺(ひょうぼう)《ぼんやりとしてかすかな様》の余韻が、疲れ果てた戎の胸に溶けて入る様に感ぜられた。
 真に天楽月中に聞ゆとは是である。

 戎は少しの間平伏したまま、恍惚として身辺一切の事を忘れて仕舞った。唯此の短い幾時の間が、戎に取っての救いである。彼は心の底から、神と交通する様な嬉しさが湧き出でて、身の危うさなど思わなかった。その中に歌は雲の中に入って消えてしまった。
 戎は静かに首を上げて辺りを見廻した。全く目の覚めた心地である。

 今の歌が夢で有ったか真事であったか、それとも疲れた我が神経の業であったか、自ら判断することが出来ない。唯感じるのは、汗の冷たく乾いた身に、寒く夜風の吹いて居るのみである。見れば小雪は早や地の上に眠って居る。オオさぞ寒かろうと、直ぐに自分の外被(うわぎ)を脱ぎ、小雪の身を覆(おお)って、そうして自分は身震いした。

 何が何でも此の様な所には居られない。切めて風の来ない様な、隠れ場所は無いだろうかと、彼は立って捜しに出た。何しろ広い屋敷で、小屋とか物置とか言うべき古い建物が、幾等も有り相に見えるので、其処此処を見廻る中に、重なる建物の後ろに出た。見ると一方の窓から薄明りが洩れて居る。扨(さ)てはここには誰か居るのだ。

 何の様な人かしらと、彼は忍び寄って中を覗いた。中には奥の方に、薄暗く硝燈(ランプ)が点(つ)いて居るけれど、その光が弱いので良くは見えないが、見て居るうちに茫(ぼん)やりと床のうえに異様な姿が見えた。彼はそれを見詰めて、しばらくは眼を離すことが出来ないほどに驚いた。



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