akutousinsi16
悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第十六回
有浦は十時頃になって目覚めたので、之から昨夜借りた金を返す為、蘭樽伯の家に行こうと思い、身を起こして寝台から下る折りしも、トントンと戸を叩く者があった。軍人の事で、何人に向かっても胸に隔ての無い質(たち)なので、間も置かず返事をし、
「誰だ、サア入って、入って。」
と云う声に応じて、入って来たのを誰かと見ると、彼のお仙を救ったと云う少年貴族綾部安道だった。
(有)オオ、綾部君か。昨日は失礼した。
(綾)イヤ、僕こそ失礼した。実ハネ、君に少々相談し度い事が有って。
(有)相談と云えば何でも聞こうが、先ず掛け給(たま)え。
と言って椅子を与えると、綾部は静かに座を占めて、
「外でも無い、アノ昨夜逢った山田蔦江女(お蓮)と、お仙嬢の身の上を聞き度いと思うのだが。」
有浦は矢張りそうかと思い、
「君は何だな、お仙嬢を貰い受ける積りと見えるな。」
(綾)イヤ、君も知って居る通り、僕は父にも兄にも死に分かれ、今は母と二人で暮らしている。所が母も次第に取る年波とやらで、早く孫の顔が見たいと、毎日の様に言い暮らして居るから、実は母に免じても、早く女房を迎え度いと、内々気に掛けて居た所、幸いアノお仙嬢と知り合った。
実は男の口から恥ずかしい話だけれど、それからと言う者は、寝ては夢、覚めては現(うつ)つと云う程の次第で、此の儘(まま)居ては、病気にでも成りはしないかと、自分ながら案じられる。男と生まれたからには、何(ど)の様な事が有っても、思う女を妻に仕度いと、独り心を焦がす中、昨日は幸いお仙嬢の母に逢い、娘の許(もと)へ、自由に出入りして好い、と云う許しを得、更に君も彼の家と親しくしている様子だから、実に願っても無い仕合せだ。最(も)う猶予する事は無い。早速申し込もうと思ってサ。
有浦は、お仙と安道が身分が、同じでは無い事を知って居り、既に此の婚礼の行い難きを察して、お蓮にも語った程なので、言葉を濁して、君の方で爾(そう)思っても、先で何と思っているかは分からないだろう。
(綾)先とは蔦江女の事かエ。
(有)蔦江女もお仙嬢もサ。
(綾)それは心配に及ばない。蔦江女は既に娘の許へ自由に出入りせよと許して呉れたから、今更故障を言う筈は無い。又お仙嬢は既に其の前に三、四度も逢って、僕の心が通じて居る。
(有)ではお仙嬢が既に君を愛して居ると云うのか。
(綾)爾(そう)サ。
(有)成る程、君とお仙嬢とが互いに愛するなら夫婦になるのは当然の事だけれど、初めて逢って一週間も経た無い中に、婚礼を申し込むとは、余り早過ぎるじゃ無いか。
(綾)早過ぎるかも知れないが、何時まで経っても同じ事だから。
(有)ダガサ、君は蔦江女親子の身の上を、詳しく知って居るかエ。
(綾)詳しくは知ら無いけれど、蔦江女は裁縫店の女番頭を勤める身だと云う事だった。裁縫店の番頭なら誰に向っても恥ずかしくは無い。是が若しデミモンドか何ぞなら、其の娘を貰っては、貴族の恥だとか何とか云う事が有りも仕ようが、商家の番頭なら、恥ずるには及ば無い商売だ。少しも差し支えは無い。
今若し綾部に向かい、蔦江女が、其の実花房屋お蓮と言って、有名なデミモンドである事を、打ち明けたならば、綾部は如何に驚く事だろう。知っていて言わないのは、友達の道に背くので、有浦は思い切って打ち明けようかと思ったけれど、昨日、お蓮の願いに由(よ)り、打ち明け無いと約束した事なので、何方(どっち)も附かずに言葉を選び、
「成る程、番頭は番頭でも、生まれた時から番頭と云うのでも無いだろうから、其の前には何をしていたか、能(よ)く聞き糺(ただ)すのが好いだろうゼ。」
(綾)爾(そう)とも、だから僕は今君に聞きに来たのだ。先ア、君が知って居る丈の所で、何か世間に恥ずべき様な行いが有ったのかエ。
(有)イヤ僕としても詳しくは知ら無いから、君先ず直々に当人に逢って聞き給え。それが何よりの近道だ。
(綾)でも当人に聞けば、たとえ恥になる程の事が有っても、自分の恥を打ち明ける筈が無いから、それよりは君に聞く方が確かだろう。
有浦も、其の理屈には殆ど返事に困ったが、漸(ようや)く思い附いて、
「イヤサ、当人さへ隠す程の事ならば、僕の口からは猶更(なおさら)話され無いと云う者だ。自分の秘密を自分で漏らすノハ好いけれど、他人の秘密を漏らしては済ま無いから。」
(綾)それなら蔦江女に、其の様な秘密が有ると云うのか。
(有)有るとも無いとも僕の口からは言われ無いから、当人に直々聞けと云うのだ。
(綾)でも、それじゃア余り曖昧過ぎるでは無いか。有るなら有る。無いなら無いと発輝(はっきり)云って呉れ給(たま)え。
(有)イヤ、言われ無いと云うのに、それを発輝(はっき)り言えとは君が無理だ。僕はもう何度問われても、直々当人に聞き給えと云うより外に返事は無い。
綾部は暫(しば)らく考えて居たが、イヤそれでは仕方が無い。当人が仕立て屋の番頭だと云うから僕は其の言葉を信じ、少しも世に恥じる女で無いと思って居る。濫(みだ)りに人を疑うのは却(かえ)って紳士たる者の恥ずる所だ。
(有)併し君、婚礼と云う事は一生の大事だから、疑った上にも疑い、問うた上にも問い糺(ただ)すのが本当だゼ。
と湿濃(しつこ)くも繰り返すのは、友達の為を思う、正直な有浦の心に違いない。
綾部は、此の言葉の様子を、怪しいとは思ったが、此の上問うとも無益と思ったのか、全く話の向きを替え、
「それデハ最う問いはしないが、君今日若し暇ならば、僕と一緒に昼飯でも食べに行こうじゃ無いか。」
(有)イヤそれは有難いけれど、実は昨夜、測(はか)らずも少し人から金を借り、今日は是から返しに行く積りだ。馳走なら次まで預(あず)かろう。
(綾)爾(そう)か、それでは是で分かれよう。
と言いながら立ち去ろうとするのを、有浦は少し留め、
「君之から何方(どっち)へ行く。」
(綾)外に用事も無いから、伊太利(イタリア)村(お仙の住んでいる鶴女の家)に行く積りだ。
(有)それでは僕の行く先も、方角が似て居るから、其所(そこ)まで一緒に行こう。
と言って有浦は之から着物を着替え、綾部と共に馬車に乗って、我が宿を立出(たちい)でたが、道々彼(あ)の昨夜の曲者が、鶴女の家を伺って居たので、姿を替えて其の跡を踪(つ)け、利門町で取り逃がした事を話すと、綾部は事の仔細は知ら無いが、既に先の日、曲者がお仙を攫(さら)って行こうとした所を、我が自ら追い払った程なので、薄々とお仙を狙う敵があることを推測した。
「それは聞き捨てになら無い。好し好し、僕も之から気を附けて、若し其様(そん)な奴を認めたら、酷い目に逢わせて、充分お仙嬢を保護して遣る」
と呟(つぶや)いた。
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