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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 8.19
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百四十七、『華子』 (二)
巌窟島伯爵が、華子の枕辺を見張っているのは全く四晩目である。たとえ、親身の父といえども、これほどの辛苦は出来ない。しかしこのことは華子と部屋を並べている野々内弾正の外は誰も知らない。時々は弾正の部屋に来るなどして、つまるところ一人で二人を守護しているのだ。
華子はなおも弱い声で、「貴方にまで御心配を掛けるなどと、どうして私はこの様な病気になったのでしょう。」
伯爵は低いけれど厳かな声で、「驚いてはいけませんよ。毎夜この部屋に忍び込んで貴方のお薬に毒を垂らして去る者があるのです。」
華子;「エ、エ、その様な人が。」
伯爵;「ハイ、それだから私が潜(ひそ)んでいて、直ぐにその後ろに回り、毒を取り捨てるのです。今夜も今しがた、その人が立ち去りました。」
華子は本当とも思えない。「でも私に毒を飲ますなどとあんまり恐ろしいことでは有りませんか。」
伯爵;「恐ろしくても事実です。米良田老伯爵もその夫人も忠助も皆同じ毒殺者に殺されたのです。」
華子;「誰です。その毒殺者とは。」
伯爵;「誰であるか、明夜は貴方に良く分かるようにその人の顔を見せて上げます。」
華子はこれだけの問答に打ち疲れて又眠った。そうして翌朝目が醒めた時、ありありと覚えてはいたけれど、巌窟島伯爵が私のために四晩も寝ずの番をしたと言うが怪しく、又私が飲む薬に毒を入れる人があるというのもなおさら納得が出来ないので、さては何時もの夢か幻であったのかと不思議に思い、今夜こそは気を確かにして良く見届けようと、夜の来るのを少し待ち遠しいようにも思えたが、そのうちに夜となり、又いつの間にか眠ってしまった。
そうして何時間の後かは知らないけれど、柔らかに体を揺する者があるように感じて目を覚まし、誰かと見れば、やはり巌窟島伯爵である。華子は気強く感じて、「オオ、夢ではない。やはり貴方が見張ってくださるのですね。」と言うのを、伯爵は唇に手を当てて制し、「夜前約束をした毒殺者が今来ますから、寝たふりをしてじっくりとお見届けなさい。」
華子は恐ろしさにゾッとして幾らか残っていた眠気も全く消え、これなら夢でも幻でもないと、深く心の底に刻んだ。
この時伯爵は幽霊が消えるように襖(ふすま)の後ろに消えてしまったが、間もなく廊下の床板が忍び足の重さに鳴り始めた。聞くうちにその足音がこっちに近づいて来る。華子はいよいよ恐ろしく、いっそ見ずに居ようかと目を閉じたが、一命のつながる所と思えば閉じても居られない。別に寝たふりををするわけではないけれど、体はすくんで、寝たよりもなお静かになり、ただ瞼(まぶた)だけを細く開いて待っていると、部屋の入り口の垂れ幕をそっと開いた者がある。その手の細さ、白さ。
やがて垂れ幕の間から黒い服の女姿が現れ、滑らかに華子のベッドに寄って、その細い白い手を華子の口の辺りにかざした。これは寝息をうかがうのである。寝息はいささか乱れている。けれど、目を覚ましているとは見えない。安心と思ったか黒い姿は隠し持つ小さいビンを取り出し、その中の水薬を華子の薬のコップに幾滴か垂らし、再び華子を見返って、元の通り滑らかに去った。
華子は初めから終わりまでこの者の顔を見たが、泣いても泣かれないとはこのことであろう。毒殺者は自分の母である。イヤ、母となっている継母の蛭峰夫人である。
直ぐに伯爵は現れて来た。「どうです。納得が行きましたか。」華子は鳴き声で、「私はどうすればよいのでしょう。」
伯爵;「厳重に言えば継母を訴えるのです。毒殺者として。」
華子;「そのようなことが出来ますものか。もう助かる道が有りません。いっそ死んでしまった方が」言いながら毒のある杯へ早や手を延ばしかけた。
伯爵はそのコップを取り、「中の毒薬は他日の証拠に毎夜私が集めてあります。」
華子;「そのお陰で私は死ななかったのですね。」
伯爵;「イヤ、そのお陰よりも、お祖父(じい)様のお陰です。野々内弾正がこの様なことを見抜いて、貴方に少しずつブルシンを飲ませておきました。ソレのために貴方の身が毒薬に抵抗することが出来たのです。お祖父様のこの用心が無かったら貴方は忠助同様に最初の毒薬で死んでしまう所でした。」
華子;「アア、私は死んでしまった方が好い。どう考えてもーーー。」
伯爵;「貴方が死ねば、森江真太郎は絶望のためこの後の生涯が無い人になってしまいます。貴方が死ねば全身不随の叔父い様を誰が介抱します。」
華子;「やはり生きて居なければならない。生きているにはお母さんのーーー。」
伯爵;「ハイ、お母さんの罪を訴えずに生きていられる道はただ一つあるのです。全く私にすがってさえおいでなされば。」
死ぬといっても真実死にたいはずは無い。華子は少し引き立て「どの様な道でも、貴方におすがり申します。お母さんにもさわりが無く、そうして私も助かるなら。」
伯爵;「全く非常の手段ですが、問いも何もせずに私の言うとおりに従いますか。」
華子;「ハイ、従います。」
伯爵;「どのようなことがあろうとも驚いてはいけませんよ。目も見えなくなり、息も止まり、脈さえなくなってしまっても私を信じて安心してお出でなさい。」
華子;「分かりました。」
どの様な非常手段かは知らないけれど、全く相談が固まった。
そうしてこの翌朝、まだ誰も寝込んでいる四時と言う時刻に、再び毒殺者蛭峰夫人がこの部屋に忍んで来た。その様子は以前に来たときと少しも変わらない。そっとベッドに近寄って華子の寝息をうかがったが、今度は息が絶えている。次にはその肌に触れて見たが、冷え固まっている。アア、蛭峰夫人の目的はこれで達した。華子は早や死骸となって居るのだ。
この場合において、夫人の落ち着き加減は全く驚くべきである。静かに振り向いて先ず先ほどのコップを見た。コップは飲み干したように、底に露気が残っているだけだ。この露気を分析でもされてはならないと思ったのかハンカチを出して綺麗に湿りを拭(ぬぐ)って取った。そうして再び華子を顧み、顔に死相がが現れているのを見てにっと笑み、また元の通り帰ってしまった。
この度胸は人間だろうか。後に至って識者がこの夫人を一種の狂性《マニア》と鑑定したのも無理の無い所である。
第二百四十七回 終わり
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