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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二十八、三十四号、二十七号

 「どうしてもこれ以外の処分は無し」と巡視官が書き添えた語で全く友太郎の脈は絶たれたけれど、友太郎自身はそうと知るはずが無い。
 今にも自分が裁判に引き出されるかもと、絶望した身に少し勇気が湧いて来た。裁判をさえ受ければこの身は釈放されるに決まっていると、このように思っているのだ。

 たとえ釈放されないにしても、宣告の文言により、自分が何時まで牢の中に置かれると言う期限が分かるのだ。これだけでも今の身に比べれば、非常な幸いである。のみならず、裁判所に連れて行かれる道だけでも広い天を仰ぐことが出来る。外の新しい空気を呼吸することが出来る。アア、青空、アア空気、人間と生まれた者に、自然に許されている天と空との二つさえ、土牢にいる身にとっては非常な賜物(たまもの)のにように感じられる。

 ただこの感じのために、気の持ち方、身の持ちかたも軽くなった。今まで月日と言うものを知らず、又知ろうとも思わなかった者が、どうか月日だけはもう忘れないようにしたいと思い、巡視官から千八百十六年の六月三十日と聞いたのを元として、壁に一日一日、一本づつの筋を付け、これを数えて今日は何日と、見定めることにした。その筋は矢張り壁の崩れた赤土をもって付けるのだ。

 一週間経てば筋が七本となるのだ。その七本を越えないうちに何とか巡視官から連絡があるに違いないと、毎朝寝台から起きて、降りるのが楽しいようになった。そうして、走り寄っては壁の筋を数えた。これが、彼が土牢に入れられてからの初めての楽しみであったが、悲しいことに、この楽しみは更に苦しみを深くする前置きだったのに過ぎなかった。

 七日は過ぎた。音沙汰が無い。八日も、九日も十日も過ぎた。彼はそろそろ焦(じ)れ始めた。十五日、二十日、三十日、アア、何と待ち遠しいことだろう。

 イヤ、自分の考えが悪かったのだと、一人思い直したのは一月以上経ってからだ。いかに巡視官が請合(うけあ)ったところで、旅先の事だもの、どうして処置が出来るものか、必ずパリーにある中央政府の元に帰り、中央の裁判所か、司法省へ言い立てて、その上で、何とか手続きをしてくれるだろう。

 多分全国の監獄を巡るのであろうから、二ヶ月経たなければ、パリーには帰らないだろう。そうだ、二ヶ月、待ち遠しくはあるが二ヶ月待った。イヤ、三ヶ月かもしれない。三ヶ月待ったけれど、便りが無い。遂(つ)に半年、遂に一年。

 一年の後には前よりもっとひどい絶望の底に沈んでしまった。巡視官さえこの身を見捨てたのだ。それとも巡視官が来たと思ったのが夢ででもあったのだろうか。実際来たことのない巡視官を、来たことがあるように、自分の気の狂いで、思い違ったのかも知れないと、自分で自分を疑うようになった。心がこれだけ軟弱に成ったのだ。

 その頃に、今までの典獄《監獄所長》が他に転勤して、新しい官吏がその後任になってここへ赴任(ふにん)した。旧典獄《監獄所長》は大抵の下役を引き連れて去り、新典獄《所長》の方は、一々囚人の名を覚えるということが面倒でならない。そのために今まで団友太郎として知られていたこの土牢の囚人は総ての囚人と同じく、名では呼ばれずに、部屋の番号で呼ばれ、「三十四号」と呼ばれることになった。

 梁谷法師と同じことである。これは、「二十七号」と名付けられた。もし、この泥埠の要塞に来て、団友太郎という囚人がいるか、梁谷法師と言う者がいるかと問う人が有っても、名簿を調べた上でないと、答えることが出来る人がいなくなった。

 このようにして、団友太郎は世間から忘れられただけでなく、監獄の係員からさえ忘れられかけている。少なくてもその名前だけは早やほとんど忘れられたのだ。

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