gankutu29
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 1.13
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二十九、怨みに相当の復讐
巡視官にさえ、見捨てられたと分かってからの、団友太郎の有様は、言うにも忍びないばかりだ。もう何年が経ったのか、順序良く付けてある壁の筋もほとんど数え切れない。この頃彼が切実に感じたのは、ただ一人と言う寂しさである。世に出たいと言ったところで、その望みは叶(かな)わないが、せめて誰か相手が欲しい。生きた人間の顔が見たい。自分の外に誰でも自分の傍(そば)に居ればよい。
アア、人は到底自分一人では暮せるものではない。敵でも、味方でも、何か無くてはとても永い間の我慢は出来ない。それを我慢すると、普通の人なら病気になる。それより強い人なら発狂する。病気の末は一死である。発狂の末は一亡である。死ぬのも忘れるのも、共に人の人であることを失うのだ。人間でなくなるのだ。団友太郎は何時人間でなくなるだろう。
ただ見ることが出来るのは牢番の顔ばかりである。けれど、牢番は囚人にとっては、決して人間の様には見えない。単に生きた壁、生きた戸のように見えるのだ。それでなくても厚く、それでなくても堅い牢の壁、牢の戸が、この者が居るために一層抜け出る邪魔となるのだ。
場合によっては抵抗もし、我を取り押さえもし、声も出し、力も出す。又血も出るという極めて恐ろしい閂(かんぬき)なのだ。この様な者の顔を見ても何で自分の心が慰められるだろう。このままで話し相手も無しにいては、もしや、人間の言葉さえも忘れはしないだろうか。声が萎縮(いじ)けて出ないことにはならないだろうか。口が聞けなくても。耳が聞こえなくても何でも好い。誰か居てくれればそれに向かって話だけでもして見るのに。
と言っても叶(かな)わない望みだ。いっそ自分だけで、声を出して独り言でも言えば、幾らかは気が紛(まぎ)れるかも知れないと思い、あたかも、相手が自分の前に居るかのように、一人で話も仕掛けてみた。空洞のような土牢の壁に響く自分の声が恐ろしい、確かに地獄の声である。人間の声とは思えない。
これを思うと、世の人が怖(こわ)がり恐れる、重懲役(じゅうちょうえき)の囚人が幾らましか知れない。苦役は苦役でも、同じ囚人と一緒に居て一緒に働くのだ。人間の顔も見、人間の話もする。確かに人間らしいところが残っている。なぜ、この身を懲役人にはしてくれないのだろう。強盗、人殺し、その様な罪名は構わない。何でも人間の中に居たい。
団友太郎が、もし多少学問の経歴がある男なら、或いは難しい問題を考えるとか、過ぎた歴史を記憶から引き出して、眼前のことのように想像し、あれこれ批評しなどして、幾らかは気が紛れることも出来たろうけれど、哀れむべし、彼はわずかに十九歳までしか人間の世界に居なかった。
自分の身にさえ、ただお露を思い始めたことのほかに歴史は無い。学問といって諸国の言葉こそ知ってはいるものの、自分から問題の出るような学問は少しも無い。
かって彼は、同じこの土牢の中に大金のことばかり言っている狂法師が居るように牢番から聞いた事を覚えている。
狂法師と言えば極めて危険な相手だろうけれど、その人でも好い。同居したい。同居して介抱でもすれば、どれほど歳月をつぶしやすいかもれない。こう思ってついに、牢番に話して、狂法師と同居のことを典獄《監獄所長》に願い出た。典獄は高笑いした。「狂人と狂人とを一緒に置いてたまるものか。」と、自分では果たしてこの二人の囚人がどの様な狂人であるのかを、見届けたことさえないのに。
勿論願いは退けられた。これでほとんど百計尽きた状態になったが、尽きた外にただ一つ残っていた。それは幼い時に母から聞き覚えた、祈祷(きとう)の文句である。
水夫となって海に出て以来、暴風雨にでも逢(あ)った時の他は、神に祈ったことことはない。祈りの文言も大抵は忘れている。けれどこれを思い出そうというのに身をゆだね、何日かは気が紛(まぎ)れた。そうして実際少しずつ思い出して、これを口に唱えてみると、以前に何の事だか夢中であったその文句が一々我が心に浸み入って来る。
唱(とな)えれば唱えるだけ、神と自分が接近するような気がして、一時はアア、遠からず神に救われるのだ。神の居ます間は何も絶望することは無いと、この様にさえ思う事になった。
この思いが浮ぶだけ実際神に救われているのだろう。彼の身に、神が未だ着いているのだろう。けれど、幾日、幾夜、祈りはただひたすらに繰り返しても、土牢の壁は開かない。依然として相手もいない囚人の境遇である。
幾年月続いたかは知らないが、果ては又その反動が来た。気が安まった後の反動はその前の苦しみよりもっと苦しい。彼は何もかもただ恨めしい最初の状態に帰ったのだ。
最初の恨みは、相手も無しに、単に自分の身が大事なときに捕らわれたという悔しさ、情けなさに過ぎなかった。今度の恨みは相手がある。一体誰がこの身をこの様な目にあわせたのだろう。露ほども罪を犯す気の無い者を、誰が嫌疑を受けさせて、捕らえさせたのだろう。
誰だかは知らないけれど、確かにその様な者が有った。蛭峰検事補が密告状を出して示し、この筆跡に覚えがあるかと言い、更にお前は人に恨まれているから注意せよと言われた。
誰だろう、誰だろう。一人だか、二人だかは知らないが、アノ密告状出した者こそ、この身の敵である。怨みを返さずに置かれようか。密告状の文句により、その差出人は分かるかも知れないと、これも考えに考えて、大方は思い出し、心の中で読み返してみると、どうしても、この身を罪に落とそうとの執念らしい心が文字の外にこもっているように思われる。
何者ならば、これほど残酷にこの身の生涯を揉(も)みつぶしただろう。目を抉(えぐ)られたら目を抉り返せ、歯を抜かれたら、歯を抜き返せ、これが復讐の本来である。どのようにしたならば、この恨みに相当した復讐が出来るだろうと、これより後は昼と無く、夜と無く、ただその考えに心を砕き、肝心の自分が、どの様な名案も行う事ができない境遇にあるということは気が付かない程であった。
次(三十)へ
a:1372 t:1 y:0