gankutu61
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
六十一、贈り物
果たしてこの奇癖の紳士は、ある人が見かけたと言うように、馬に乗ってボントガーの街道を目指して行っただろうか。
ボンドガーの街道に、昼は旅人の休み所、夜はその安宿となる一軒家がある。これが即ち毛太郎次の開いている尾長屋という宿屋なのだ。一頃は軍隊などが往来するため、多少の繁盛をみたけれど、今は見る影もなく寂(さび)れている。
今しも主の毛太郎次は、表に立って長い街道を右左に見渡したが、午後二時の炎天下に、大抵の旅人がどこかに休んでいると見え、目にさえぎる人影もない。「エッ、人っ子一人通らないとは、客を待つより昼寝でもするほうがよっぽど益しだ。」と恨めしそうに呟いて家に入ったが、しばらくすると入り口に、人が馬から降りるような音がして、彼の夢を驚かせた。
久しく客に飢(かつ)えて居る彼は跳ね起きて、戸口に出たが、見ると五十二、三歳の僧侶姿の人が、馬を入り口の横の方に繋(つな)ぎ、この家に入る所である。毛太郎次は力一杯の世辞を述べて、向かい入れ、最も風通しの良い所に椅子を寄せて座らせると、法師は毛太郎次の顔をつくづく眺めて「十何年か前、マルセイユのアリー街に住んでいた仕立て職人の毛太郎次というのはお前かい。」
毛太郎次は少し怪しみ、「ハイ、私ですが、何の御用で」、法師はホッと安心の息を吐き、「アア、やっと尋ね宛(あ)てた、私はお前に渡してくれと、人から贈り物を頼まれて来たので。」
奇妙な話ではあるが贈り物とは何しろ耳よりである。
「ヘ、私に贈り物を」
法師;「イヤ、お前一人ではない。外の人へも分けるのだが、何しろ金目の品物だから間違いがあってはならない。先ず良く聞きただした上でなければ、」
金目の品とはいよいよもって有り難い。「イイエ、幾らお問い合わせ下さっても、私以外、毛太郎次と言う者はおりません。仕立て職人であった粕場毛太郎次は」
法師;「そうそう粕場毛太郎次、その粕場毛太郎次はお前に違いないけれど、じっくりと事情を聞きたださなければ。」
毛;「どうか何でもお聞きください。外にお客も有りませんので、ただ長患(わずら)いの妻が二階に居るだけで、漏れ聞く者も有りませんから。ですが貴方はご空腹では有りませんか。」
法師;「イヤ、何も欲しくは有りません。ただ長い話だから喉を潤す物があれば。」
毛;「それなら丁度、上等のぶどう酒が有りますから持って参りましょう。」
福の神でも舞い込んだように思い、いそいそと退いたが、やがて穴倉の底から、昔繁盛した頃仕入れて売れ残った一瓶を持って来て、「お寺さんでもこれは一口召し上がっても良いでしょう。」と注いで出した。
法師はわずかに唇の端を潤し、再び毛太郎次の顔を熟視して、「今から十何年か前だというから、もうお忘れかも知れないが、アリー街でお前と同じ家の二階に住んでいた友太郎という水夫を知っているかえ。」
毛太郎次はびっくりして、「エ、友太郎、団友太郎、知っていますとも、彼は私の親友でした。」
親友と言うほどでもなかった様に思われるけれど、こうさえ言えば、間違いはないと知っている。
「彼はまあ不幸な男でしたが、その後どうなりました、まだ生きて無事で居ますか。」
法師;「イヤ、死んだよ」
毛;「オオ、死にましたか、可愛そうに」
法;「死んだので、お前への贈り物と言うのがその遺物だ。形見分けのようなものだ。」
毛;「エ、形見分け、よほどの財産でも残して」
法;「イヤ、財産を残そうにも彼はツーロンの獄で牢死したのだから、財産を作るはずはないが、」
牢死と聞いて顔色を青くした。彼の入牢には自分も幾らか関係がないとはいえない。たとえ関係と言うほど出ないにしても、無実の密告を受けた事を知っており、随分その無実な事を、その筋へ言い立てることが出来たのに、言い立てずに居て、その当座はひどく気にかかった事もあった。これを親友とすれば少し実意が足りない親友である。その後も友太郎はどうなっただろう。何処の牢に入れられたのだろうと、などと怪しんだこともある。怪しむたびに、何となく済まない様な気がして、余り気持ちは良くなかったのである。
「ヘエ、ツーロンの獄で牢死しましたか。」
法師;「ハイ牢死しました。私は法師であるためその死に際に典獄から招かれて、当人の今はの希望を聞き取ったが、本当にかわいそうであった。
真にその時のことを思い出したのか、法師は首(こうべ)を垂(た)れてしばらく涙に暮れる様子であったが、やがて顔面を平静に戻して、
「この友太郎と同じ牢室に、英国の大金持ちが居られた。友太郎がひどくその人に親切を尽くしたと言うことで、その人は牢を出るとき、自分の指の指輪を抜いて、友太郎に与えて行ったという言う事だ。友太郎が私に言う事には、この指輪にあるダイヤモンドが、五萬フランの値打ちが有ると言う事だから、私が死んだ後で、どうかこのダイヤモンドを売り、その金を私の友達に分けてくださいと言う事であった。
私は法師の身でダイヤモンドの値打ちなどは分からないけれど、兎に角言葉に従うため、今度マルセイユに来てその道の商人に鑑定させたが、よほど性質が優れているので、五万フラン(現在の日本円で2億円)ならば何処の宝石屋でも引き取ると言う事だ。豆粒ほどの玉が五万フランとは、何と驚いたわけではないか。まあ見て送れ。コレ、このダイヤモンドだよ。」と言って法衣の中から小さい箱を取り出し、その蓋(ふた)を開けて中を見せた。
第六十一回終わり
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