gankutu63
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
六十三、赤い皮の財布
いよいよ、毛太郎次が、法師の望みに応じて昔の事を話す事になった。こうなると法師は果たしてどの様なことを聞くだろうと、非常に心が鼓動する様子である。
段倉のこともこの毛太郎次の口で分かるだろう。彼が今どうしているか、次郎はその後どうなったか。行方知れずになっているお露のことも、或いは幾らか分かるかもしれない。
友太郎の憎い人、恋しい人、誰が友太郎の敵にして、誰が友太郎の友か。今この毛太郎次から聞かないで、誰に聞くことができる。
法師は心の激動を隠す為だろう、戸口の馬を見廻るのにかこつけて少しの間席を経った。
毛太郎次の方も、人の身の秘密を口外するのだから、余ほど大事を取らなければならないと思うと見え、先ず窓から首を出して往来の左右を眺めた。けれど、全く「人っ子一人通らない。」は先ほど、彼が一人呟いた通りである。
そうして次に、彼は自分と法師のために二個の座を設けた。このところに、馬に飼えばなどを与え終わって帰って来た法師は、ようやく心を取り静める事が出来たと見え、顔色も穏やかであるが、さらに、何かの用心のために、二個の座のうち、最も自分に顔が多くは影になるように向かっているほうを選び座した。
毛太郎次も座について、「ですが、法師さん、その前に友太郎の牢死した有様を私に聞かせてください。彼は誰かをひどく恨んでは居ませんでしたか。」
法師は少し考えて「イヤ、別に恨む様子も見えなかったが、ただ、自分が何故牢に入れられたかそれが少しも納得が出来ないと怪しんでいた。自分は何の罪も犯していないのに、何故このような目に会うのだろうと、何度も問うように言ったが、死に際には、アア、死んで天に昇れば何もかも分かるだろう。何の為にどうしてこのような目に会ったのか、それの分かるのが、せめてもの楽しみだと。このように諦めた様子で有った。」
毛太郎次は恐ろしそうにほとんど身を震わせ、「では、今頃は何もかも、彼には分かっているでしょう。もう、隠しても無駄ですねエ。」
法師;「そうです、彼の在天の霊がその隠した事を知ればお前のあの世での立場が無くなると言うもの」
毛;「イイエ、この世においてこの事を知る者はただ私一人です。彼が自分で知る事が出来なかったのは当たり前です。」
法師;「オオそれではどうか、第一に彼が逮捕された経緯《いきさつ》から話してくれ。」
毛太郎次は言葉に力を込め「言うからには、有った事を有ったままにに話します。友太郎の述べます。友太郎が捕らわれたのは二人に妬(ねた)まれたのが原因です。」
法師;「二人とは」
毛;「お露を友太郎に取られたのを妬む次郎と、友太郎が船長になるのを羨(うらや)む段倉とが、手紙で密告したのです。その手紙はマルセイユからスペイン村へ行く道にある酒店で書いたのです。」
法師は思わず叫ぼうとして、
「アアわが師梁谷、わが師梁谷、御身の明察には」
毛;「オヤ、貴方はどうかなさいましたか。」
法師;「イヤ、友太郎の友人と認めた人が、かえってその様な事をしたとはあんまり驚いたので。」
毛;「真に二人の不実には驚きますよ。はじめそのことを言い出したのは段倉です。彼は次郎がお露を取られた絶望から自殺するなどと言っているのを煽って、ナニ、友太郎を密告すれば好いのだと言い、自分で密告状の文を作り、自分の左手で、人に見破られないように書き、郵便箱に入れさえすればよいようにして、そうして実は冗談だと言って、それを次郎の手の届くところに捨てて立ち去ったのです。その後で、次郎がそれを拾って郵便に出したのです。」
全く梁谷法師が推量した通りである。
法;「お前はその様なことを誰から聞いた。」
毛;「自分の目で見たのです。」
法;「見たけれど、それを止めようとはしなかったのだな。」
毛;「ハイ、段倉が無理に酒を飲ませ私を泥酔させておいて、このようなことをしたのです。その時に私は見たけれど、良くは理解しておらず、酒が醒めてから思い出し、そうしてその翌日の婚礼の席に捕吏が踏み込んだ時、初めて何もかも理解する事が出来ました。」
法師;「理解したけれど、別にその筋に向かって、無実の密告だと言って申し出なかったのか。」
毛;「イイエ、私は余り友太郎が可愛そうだと思い、直ぐにその席で段倉を責め、その筋に訴えると言いました。けれど、段倉が今その様な事をして、もしも友太郎の共謀と疑われたらどうする。密告は冗談から出たにしても、友太郎が国事犯の密書を取り次いだ事は事実だから、共謀とみなされてどの様な目に会うかは分からないと言われ、自分の身が大事だからそれもそうかと、そのまま私は黙ってしまいました。」
「イイエ、法師さん、こればかりは私が意気地が無かったのです。その後も友太郎のっことを思い出すたびに、本当に黙っていたのが済まなかったと、後悔していました。だから、貴方がここに来て初めて友太郎の名を言った時にも、直ぐにその心が起き、実は胸を刺されるような気がしました。全くです。こればかりは友太郎が天に居て、私の心の底を見抜いても構いません。少しも違いは無いのですから。」
全く実情を吐いているには違いない。
法師;「では、友太郎への実意は有ったけれど、、その実意を実行する勇気が無かったのだ。成る程、お前だけはまだ友太郎の友人の中である。」
毛;「友人ですとも、私の外にこれだけ実意のあったものが何処に居ます。」
何処にとなじるほどの実意ではないが、先ず許すには足るのだ。 毛太郎次は更に言葉を継ぎ、
「それに友太郎の父親が死んだ時でも、葬式の費用は先ほど申しましたとおり森江氏が出しましたけれど、実際手を下して葬ったのは、同じ家の四階、五階に住んでいた人達で相談して、私が引き受けたのです。
棺の世話から穴の指図、一切外回りの事まで皆、一人でしてしまいました。その証拠には今でも、森江氏がこれで葬式の費用一切をまかなう様にと言って、その部屋の暖炉の上に置いて行った財布を、私が持っています。赤い皮の財布ですが、一切の支払いをして、その財布だけが残りましたので、これは形見としてお前が持っているのが好いだろうとお露までも言いました。そのことは今でも覚えている人が居るでしょうから、証人を立てることもできるのです。」
法師は少し毛太郎次を見直したのか、「成る程、、それでは誠意が有ったのだ。友太郎がもし、生前にこれだけのことを知れば、お前の勇気の足りないのを攻めるよりも、この親切を有り難く思うだろう。しかし、聞きたいことは、まだ、まだ沢山ある。」
第六十三回終わり
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