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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
六十四、不正直のお陰
法師が、次に聞いたのは、森江氏のことである。
「その森江氏は余ほど親切にされたと見えるな。」
毛太郎次;「ハイ、それはそれは、森江氏が友太郎の身の上を心配された事は話す事も出来ないほどです。彼が捕らわれると直ぐその筋にも色々運動されました。」
「何しろ、その時は国王の政府であって、少しでもナポレオンのために骨を居る人は皆その筋から睨まれましたけれど、森江氏は危険も忘れて奔走したのです。それからナポレオンの復位となるや否や、今度こそはと、何度と無く蛭峰検事補のところに押しかけて行き、友太郎を釈放の願書を出しました。多分、願書は二十通にも及んだでしょう。」
法師;「その願書は全て蛭峰の手を経て出したのですか。」
毛;「そうです。何でも蛭峰が、自分で特別に奥書を付けてやると言ったそうです。」
これだけで蛭峰がその願書を握りつぶしたことは分かる。法師は「エエ、悪人奴」と叱る言葉をようやく発せずにこらえる事が出来た様子である。
「それでも効能が無かったものですから、自分でパリーに行って直訴するとまで言っておられましたが、丁度、その頃から、森江家の不幸が始まりました。」
法師が驚き、
「エ、エ、森江家の不幸とは」
毛;「持ち船のうち、二艘まで一夜の暴風雨に沈没したのです。何でも森江家の損害は非常に莫大だろうと言う噂で、手形などもひどく取り付けられて、森江氏は血眼になって騒いでいました。そのうちに世は又も国王の時代となったため、直訴も無益ということになったのです。」
法;「その様な間でも更に、森江氏は友太郎の父の世話をもされたのか。」
毛;「そうです。友蔵老人の所には三十回も訪ねて来られたでしょう。けれど、老人が自分が飢えている様子を見られるのが辛い為でしょう。戸を閉じて一頃は森江氏をさえ、お露をさえ、中に入れないほどにしていました。丁度、老人が死んだ頃などは、森江氏の取引先に破産があって、そのために非常な損害を受け、人のことには振り向いて居られないほどの時でしたのに、それでも友蔵老人のことを忘れませんでした。」
法師は胸に迫って聞きかねた様子であった。
「アア、世にはその様な親切な方もあるのか。」
と言い、立ち上がってしばし床の上を歩き回った。そうしてようやく心を取り鎮めて、元の座に返り、
「シテ、今は森江氏は如何している。」
毛;「今でも矢張り先祖代々の銀行と船主としての業を続けてはいますけれど。その後も商業上の不幸続きで、作る船も作る船も、皆沈んだり、暗礁に乗り上げたりして、その上に取引先の躓(つまづ)きの為に損害を受けたのも何度と無く数が分かりません。ただ、先ず旧家という信用で、上辺だけは持ちこたえていますが、今では持ち船も一番古い巴丸というのが一艘残っているだけで、これも先ごろインドに航海し、もうとっくに帰っているはずなのがまだ帰らず、或いは何所かで沈んだのではないかと、世間の人まで心配しているそうです。」
「この船が帰りさえすれば、積荷の藍が今非常に値が出ていますので、多分、儲けもあり、銀行の信用も回復するでしょうが、もし、沈んだと分かったら、勿論破産するだろうと、数日前にマルセイユから来た人も話していました。何でも法師さん、正直な人間は決してこの世では繁盛は得られません。森江氏でも、私でも、同じ事です。」と、とんだ比較を付けて言った
法師は比べ方の不都合にも気が付かない。
「森江氏には大勢の家族があるのか。」
毛;「ハイ、妻も有り、子も有ります。長男は一昨年か士官学校を卒業し、どこかの兵営付きになっているでしょう。次は女で、これはこの頃何とか言う少年と結婚の約束が出来たと聞きますけれど、森江氏が破産したら、自然に縁談も敗れましょう。」
法師は深くため息を漏らし、
「森江氏が破産に至るほどまでに立ち至るとは、人間の運命ほど分からないものはない。」
毛太郎次は前の意見を繰り返し、
「どうしても不正直な者で無ければ栄えません。」
法師;「その様な事は無い。善には善、悪には悪の報いがいつかは来ずには終わらない。」
毛太郎次:「では、私にも善の報いが来る時が有りましょうか。」
この男に善の報いとは、少し可能性が低いようだ。
法師;「友太郎がお前に形見を寄こすと言うのも、矢張り報いではないか。」
毛;「それは成る程善の報いでは有りますが、到底私のような正直一方の人間は、段倉などのように、どえらい栄にはありつきません。」
法;「オオ、段倉がその様に栄えているのか。段倉や次郎の事は、何しろ友太郎に頼まれて来たのだから、森江氏のことよりも一層詳しく聞かなくてはならない。」
これで、問題は段倉のことに移った。
毛;「栄えているにも、彼は今では貴族ですよ。」
法;「エ、段倉が貴族」
毛;「ハイ、大金持ができた為に、国家に功労が有ったという事で、男爵を授かったのです。今では、段倉男爵と言い、パリーの銀行社会では飛ぶ鳥も落とすほどです。」
法;「どうして彼が、イヤ、つまらない船乗りであったという段倉が、その様な金持ちに。」
毛;「彼はナポレオンが帰ると間もなく、森江氏に頼み、添書を貰ってスペインのある銀行に住み込み、少しの間に支配人にまで取る立てられました。それからこの国とスペインと戦争が起こったとき、兵糧方を請け負って、余程の金を儲けたといいますが、それを資本に相場に手を出し、多くの人が失敗する中で、彼は資本を五倍にも十倍にも増やして、ついには銀行家の娘を妻に貰いました。」
「好い時には好いもので、その妻が又余程の財産を残して死にました。そうして今では、これも貴族で、金持ちの後家さんを後妻に迎えているのですが、この後家さんが朝廷に余程の勢力を持っていた、内大臣の娘だそうです。その勢力でとうとう彼は、貴族の仲間入りが出来たのです。金と言っては今何百万円あるかも知れず、厩には何万円とする名馬が十頭も居るのでしょう。」
法師は開いた口も塞がらないばかりである。
「成る程、それは偉いものだ。したが、あの次郎の方は。」
毛;「これも同じくらい出世していますから、それで不正直な奴には叶わないと言うのです。どうでしょう、友太郎を密告した奴が、いわば憎むべき罪人ですが、その罪人が二人とも出世して、一人正直を守ったこの毛太郎次だけが、その日にも困っています。」
法;「それにしても次郎というのは、漁師の息子で、教育も何もない男だと聞いているが、どうしてそう出世が出来たのだろう。」 毛;「法師さん、やっぱり不正直のお蔭です。」
しきりに不正直を羨んでいる。
第六十四回終わり
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