gankutu87
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 3.12
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
八十七、不老不死の霊液
安雄が問う様に「復讐の一語を吐いたのは、世に言う偶然と言うものである。深い意味があって言ったのではないけれど図星に当たった。主人は驚いて安雄の顔を見、「何で復讐などと思うのですか。」
安雄;「何でと言って、見受けましたところで、貴方は社会からひどく苛(いじ)められて、社会の或る者を非常に恨んで居る人のように見えます。それだからもしや社会に対して、大いなる復讐を企てているのでは無いかと思うのです。」
主人は異様に笑った。「アハハハ、それはまだ当たりません。私は世の中を憎むのではなく、世の中を悟ったのです。大いに悟った哲学者です。しかし、悟っただけのところは多少実行してみたいと思いますから、遠からずフランスの都パリーにも出かけて行きますよ。」
安雄も以前の問いを深く追求する必要が無い。更に主人の言葉に応じて、「勿論、パリーのことは良くご存知でしょう。」
主人;「イイエ、初めて行くのですから良くは知りません。」
このような贅沢な、しかも旅行好きと自ら言う人が、金銭にも時間にも何一つ不足が無いのに、今までパリーを知らないというはずは無さそうに思われる。けれど、これも争うべき事柄ではないので安雄は全く信じた振りをして、
「オヤ、パリーを良くご存知が無いなら、私がご案内しましょう。今日のご馳走に対する恩返しに、そうです。どうか、貴方がお出での時に、丁度私が居合わせれば良いのですが。」
主人;「案内して下さるのは有り難いが、或いは私は忍びの旅行かも知れません。」
話はそれからそれへと限りも無いが、安雄の腹には限りがある。後から後からと黒人が運んでくる珍味、又珍味で、安雄の腹は満ちてしまった。
安雄;「アノ黒人は名前は何んと言うのですか。」
主人;「アリと呼びます。」
成る程黒人には有り触れている名前である。このところへ又アリが来て、最早食事は終わったので、今度は部屋の四隅に有るあの大理石の立像の手から果実のかごを外し、これを持って来て、テーブルの上に置いた。
この食事中にただ一つ異様であったのはこの主人が、ただ話をするだけで、何一品自分の口には入れなかったことである。安雄と共に食べているように見せかけていても、その実はただ端をいじっているだけで、食べずに皿を下げてしまうのだ。宗教の或る派では、復讐を計画している者は決して自分の仇と同じ家の中で一緒に食事をしないことになっているのだが、或いはその様な為ではないだろうか。
一時安雄は怪しんだけれど、何も自分の身がこの主人の敵とか仇とと言うわけはないのだから、直ぐに思い直し、多分、自分がこの人の食事が済んだ後に来たのだろう。この人は腹が満ちているのでただ、客へのもてなしの為、食べるような風を装っているのだと、こう思って、自分の疑いをかき消した。
果物の次にアリは立派な銀の蓋物(ふたもの)を持って来て、これをもテーブルの上に置いた。その持ってくる様子は外の食物の様子とは全く違う。あたかも神前に供物を奉げるとでも言うような恭(うやうや)しさである。安雄は不思議でたまらない。この蓋物に何が入っているのだろう。
しばらくして、「これは何ですか。」と言いながら、その蓋を取ってみた。中には何か、緑色の濃い汁がある。今までに見たことの無い飲み物である。問う様に主人の顔を見上げると、主人は満足の様子で微笑んでいる。
「ハイ、これは不老父子のの霊液です。」
安雄も笑って、
「エ、不老不死の」
主人;「ハイ、昔ジュピター神に供えたと言うのがこれなのです。東方の或る山に産する草から製した物ですが、外には決してないものです。」
安雄;「これを飲むと命が延びますか。」
主人;「イヤ、まさか命は延びもしないでしょうが、しかし、飲んでみるれば、いかにも霊液と言うことが分かります。多分これほど味が良いものは他にはないでしょう。私は何時もこれを用いていますが、兎に角珍しい強壮の力を持っていることは確かです。」
安雄;「最上の強壮剤である為に霊液と言うのですか。」
主人;「イヤ、体と精神を強壮にするだけではない。心を非常に爽快にするのです。これと言ってたとえるものが有りませんけれど、或る人種はアヘンを喫します。喫した後で非常な楽しみを覚えると言いますが、この霊液は、アヘンの有害なのに対して、有効です。アヘンは徒に妄想を養いますが、この霊液は心に確実な働きを呼び起こします。これを飲めば全く当然として又人間に思うようにならない事があるのを忘れ、どの様な大事業でも出来るという確信が生じるのです。」
と言いながら主人自ら一さじをすくい。仰(あお)向いてゆっくりと飲み下した。兎に角、毒でない事はこれで分かる。物はためしと、安雄も一さじを掬(すく)って飲んだ。
成る程、珍味である。別にうまいという味は無いけれど、微妙な香気が有って、心身へ浸みて行くような心持となり、なんともたとえ様が無い良い感じが全身に満ち渡ってくる。
「はてな、この香気、成る程、類が有りません。これを製する草の名は何んと言いますか。」
主人;「アラビアの言葉でハッシシスと言うのです。」
安雄;「アア、これがハッシシスですか。いかにも神仙の食べる霊草だと聞いてはいました、ハッシシスならば全く得難い珍味です。」
主人;「しかし、もうこの上に差し上げる珍味も有りませんから、次の間に行き、タバコでも呑みましょう。」
次の間は又この部屋の次にあるのだ。安雄は主人に従って入った。ここは食堂よりも狭くて一人の居間と言う様に出来ている。主人:「これを貴方の居間にしましょう。」
安雄は部屋中を見回したが、その豪華に出来ている事は言うまでも無い。特に目を驚かせるのは、床中に敷き詰めた毛皮である。シベリアの熊、喜望峰の赤豹、ノールウェの狐を初めとして、王侯さえも簡単には手に入らないような、皮を組細工に切り合わせて、人をして深い夏草の上を歩むような思いにさせるのだ。タバコも各国の最上品をそろえてあって、琥珀、その他の貴重なパイプまで添えてある。
安雄;「一度この仙窟にに入れば、帰るのが嫌になります。この次は何処でお目にかかる事が出来ましょう。」
主人;「パリーでなければ、どうせ遠国です。私が多く居るのはカイロか、イスハハンか、バグダッドのようなところですから。」 安雄;「ナニ、世界の果てでも簡単ですよ、何だか私は羽が生えて、何処へでも飛んで行けるような気がします。」
主人;「アア、霊液がゆっくりと効いて来るのです。その様な気がして、一身の上に、少しも困難な事の無いように感じるのがその効き目です。」
全く霊液の効き目かも知れない。安雄は次第に、心持がさわやかに、かつ楽しくなり、飄々として、風に乗って天に昇るような思いとなり、何時と言う境も無しに、又何処と言う感じも無しに眠ってしまい、全く面白い夢の中の人となった。
ふと明朝、目が覚めたときには、どの様な境遇に自分の身を見出だすだろう。
第八十七終わり
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