巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame20

         椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.23

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          二十 天にも登る 

 此の様な立派な家へ初めて来て、少しも気後れのしない人は少ない。独り松子のみが、宛(あたか)も、幼い時からこの様な立派さの中に住み慣れて居るかの様に見えて、総ての挙動が落ち着いて居た。

 梅子の方は、それ程に行かなかった。別に恐れたり、悪びれたりする様子は無かったけれど、何と無く感嘆の言葉を発した度い様に見えた。

 全体云えば、松子の母こそは、物慣れた夫人だから、一番落ち着いて居る筈なのに、それが出来ないと云うことは、欲が手伝って居るからである。四方八方へ気が忙しく騒ぐ為である。

 やがて此の母は、葉井田夫人に連れられ、自分の居間と定まって居る二階の部屋に入った。見れば立派だの、贅沢だのと云う堺を通り越して、全く仙境の趣が有る。倚(よ)り掛かる長椅子など、その柔らかなこと、雲にでも乗って居るかと怪しまれる。

 真に天にも登る心地と云うものだ。益々此の夫人の心には、此の家を立ち去っては成らないとの決心が固くなった。何も葉井田夫人が、此の家に居るならば、此の身も此の家に居られない筈は無い。

 葉井田夫人は、子爵の腹異(はらちが)いの姉君で有るにもせよ、一旦他家へ縁付いたのだ。縁付いて夫に死なれた為め、此の家に引き取られたので有ろう。此の身も矢張り夫に死に分かれたのだ。

 自分の家が有ればこそ、此の家へ引き取られずに居る者の、若し自分の家が無ければ、縦(よ)し葉井田夫人ほど、今の子爵に血筋が近く無いにしても、随分此の家へ転がり込む口実が無いわけでは無い。葉井田夫人は宛(あたか)も此の家の女主人か、奥方の様な権威を揮って居るでは無いか。

 若し此の身ならば、夫人よりも更に良く此の家を治め、更に良く子爵の為になる様に、万事を切り廻して行く腕がある。何も自分の欲ばかりで、此の家に踏み留まろうと云うのでは無い。此の家の為を思って云うのだ。

 自分の先祖の出た家の為を図るのに、誰が無理だと云う者かなど、柄の無い所に柄をすげて考え始めたが、丁度此の所へ、茶と菓子とが来た。夫人は雲の様なフワフワした長椅子に身を沈めたまま、茶を受け取って一口飲んだ。全くその心持は、安堵とも満足とも、言葉には尽くされない。

 譬(たと)えば、波風荒い大海を、細い艪一挺で漕ぎ渡って居た小舟が、波の静かな港へ入った様な心持ちだろう。而(しか)も五十年ほど大海で難儀した末だから、その心持が又一入(ひとしお)だ。

 見る物と一つとして、安心の種と為らないものは無い。壁の額から姿鏡(見)から、床の敷物から、総ての道具、総ての備え附けまで、自分の思って居たよりも行き届いて居る。何故早く此の港へ着く事が出来なかったのだろうと、殆ど怪しく思うに連れ、心が担然(おっとり)と落ち着いて眠い様に成って来た。

 葉井田夫人は、夫人の満足した様子を見て、先ず此の方だけは自分の役目が済んだと安心し、次に梅子の部屋に行って見た。梅子は疲れた様子も無く、早や窓に出て、外の花園を眺めて居る。そうして葉井田夫人を見るやいなや、

 『何うも美しい所ですねえ。子爵は私が花ばかり愛する事を御存じゆえ、それで此の部屋を与えて下さったのでしょう。本当に御親切です。』
と云い、更に、
 『何と云ってお礼を申せば好いのでしょう。』

 少し当惑げに問う様には、心底からの有難さが浮き出て居る。夫人は思った。
 『此の娘(こ)は第一の感じが恩である。天性の孝心が良く分かる。此れでこそ子爵の養女に成られるのだ。子爵に取っては、誠の子と異(かわ)らない程に成るだろう。』
と。

 全く此の時の心持から云えば、此の家の相続人は梅子の外に無い、次に夫人は松子の部屋に行った。之も梅子と略(ほ)ぼ同じ様な様子で、窓から遥かかに河に向かい、河の彼方の山の上にある城跡などを眺めて居る、そうして夫人の顔を見るや否や叫んだ。

 『何うも立派な荘園ですねえ。嘸(さ)ぞ子爵は之をお愛し成さっているのでしょう。此の様なお家柄ですもの。子爵が蔵戸家と云う名と誉とを重んじ成さるのはその筈です。』

 何よりも先ず家柄を説き、名誉の重さを感ずるとは、全くその天性に、高貴な気質が備わって居ることが分かる。真に蔵戸家の名誉をその細腕に任されても、安全に守り行く事の出来る事は、此の女だろう。こうで無くては、此の旧家の後は嗣(つ)がれないと、夫人は又感心に堪(た)えない気がした。



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