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椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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二十四 結局は投票へ
似て居ると云われて、当人の梅子は却(かえ)って当惑そう、イヤ寧(むし)ろ極まり悪そうである。けれど現在子爵に携(たずさ)えられ、自分の顔と肖像の太郎の顔とを見比べられて居るのだから、逃げる訳にも行かない。
子爵は債々(つくづく)と見比べて、
『アア良く似て居る。』
と呟(つぶや)いて涙を滴(おと)した。梅子は子爵の顔を見上げて、傷(いたわ)しさに我慢が出来ない思いがしたと見え、
『若し代わられる者なら、私が海へ沈んで上げたかったと思います。』
と小さい声で語った。普段は是ほど真面目な尤(もっと)もらしい事を云わない口なのに、これほどまで云うのは全く真心が溢れたのだ。子爵は抱き締めようとする様に引き寄せ、
『オオ好く云って呉れた。』
と云って、再び涙を催したが、客の前で泣くのは不吉だと気が附いたか、淋しそうに笑顔と為って、
『イヤ梅子、和女(そなた)が居て呉れるからは、乃公(わし)はもう死んだ息子の事を思わない。』
之も全く誠心(まごころ)である。真に子爵が、何れほど梅子を愛して居るかは之で分かる。
今が今まで何か参考の材料はと、そればかりに気を附けていた瓜首博士は、此の様子を見て、重荷を卸(おろ)した様に感じた。
『アア、是で分かった。当家の相続人は、何うしても梅子である。』
と呟き、密かに葉井田夫人の顔を見ると、夫人も同じ心で俄(にわか)博士の顔を見た。以心伝心とは是れである。
双方ともに安心の心が通じ合った。
この間、『次郎様』の額はと云って見廻して居た草村夫人は、何うも我が娘松子に似た肖像が見附からないのに業を煮やし、又子爵の傍に帰り、無理に梅子を子爵から離れる様に仕向けつつ、子爵に云った。
『私の娘も出来る事なら、太郎様次郎様に代わり、海の底に消えるのを、梅子さんに劣らないほど望みますよ、ねえ松子。』
と云って、七分は子爵の顔をみつつ、三分は松子の方へ振り向いたが、生憎松子は居ない。
早や梅子と手を引き合って他の額面を見て居る。そうしてその背後には、不運続きの大佐と男爵とが無論随(つい)て居る。
併し子爵は夫人の此の言葉にも痛く喜んで、
『草村夫人よ、私は親類の有難い事を今夜浸々(しみじみ)と思い知りました。双方ともにこれほどまで私に同情を表して呉れますとは。』
夫人『此の家から出た者ですもの、若し此の家の為を思わなければ、我が家を思わないのも同じ事です。』
早や此の家へ、我が家と云う言葉を結び附けに掛かって居る。唯だその言い方が旨(うま)い為に、誰の耳にも障らないけれど、所謂(いわゆる)冥々(めいめい)《どさくさ》の中に根を卸す策は是である。
子爵は心の底から、
『有難う御座います。』
と答えながら、梅子、松子は何所に居ると懐かしむ様に見廻したが、二人は次郎の絵姿の前に立って居る。
此れが次郎の肖像だとは大佐と男爵とから教えられたのだ。太郎の肖像と同じ画家の筆で、両人が国を出る時に、之が遺身(かたみ)成ろうとは知らずに描かせて置いたのだが、双方とも傑作だ。
松子『梅子さん、何方が良く出来て居るのでしょう。絵の鑑定は貴女のお言葉に従うのがーーーー。』
梅子は暫(しば)し見て、少し顔を傍向(そむ)け、
『何だか此の方の眼は、私の顔を追って動くかと思われます。何所から見ても、私は見詰められて居る様な気が致します。』
松子は何気も無く、
『良く出来た絵姿は、八方を睨(にら)むとか云うでは有りませんか。』
と云いながら、梅子の顔を見ると、真に生きた人に逢って恥ずかしく感ずる様に、少し紅を潮(さ)して居る。そうして頓(やが)てその紅が青く変わった。之は恐ろしさを感じるのかも知れない。
『アア梅子さん、貴女は死んだ方に似て居る様に云われたから、神経に障(さわ)ったのでしょう。』
全くそうらしい。梅子は、
『そうかも知れません。』
と云って頷垂(うなだ)れた。
その様子は全く子供の様に可愛いく見える。松子は何故か自分の民雄の事を思い出した。そうして梅子さんにも民雄さんの様な人が有るだらうかと怪しんだ。
けれどそれは少しの間で、直ぐに子爵初(はじ)め、他の人がここへ来たから、その怪しみは紛れてしまった。
この様にして、又一同は暫く次郎の肖像の噂に話を集めたが、独り何だか満足する事が出来ないのは、草村夫人である。夫人は何しても此の美術室で、自分の娘が梅子に輸(ひけ)を取ったと感じた。
丁度競馬に負けた馬主の不機嫌と同じ行き方なんだ。此の上に又も梅子の手を子爵に取られては大変だと思い、
『さあ梅子さん、松子と許かり仲好くしないで、私とも親しみましょう。』
と云い、宛(さ)も可愛いくて仕方がないと云う風に、その手を取ったのは実に旨(うま)い。
果して謀事は図に当たり、松子の手を子爵が取った。愈々(いよいよ)運の尽きと思った大佐と男爵は、切めて葉井田夫人が二人の中の何方へ来るだろうと怪しんで居ると、二人の外の瓜首へ行ってしまった。男爵は小声で大佐に向かい、
『明日の天気は何うでしょう。』
暗に瓜首の幸運を冷やかすのだろう。葉井田夫人は静かだけれど、何から何まで気が附いて居る。腹の中で可笑しさを耐(こら)えながら、横合いから、
『秋の天気ですから、分からないでしょう。』
と非常に真面目に冷やかし返した。
間も無く此の部屋から出るに当たり、草村夫人は、先ず松子を子爵の手に縋(すが)らせたのは安心だけれど、未だ不満の心が消えないから、何うしても松子の長所を、ズッと目立させなければ成らないと思い、子爵と葉井田夫人との双方へ掛けて、
『是からお座敷へ行き、音楽を初めましょう。何だか皆様打ち萎(しお)れた様ですから。』
子爵も夫人も返事をしない。此方の夫人は更に、
『音楽の事は、松子が少し心得て居ますから。』
松子と聞いて一同は賛成した。この様にして、客室へ帰ると間も無く、夫人自ら松子の最も得意とする中で、又最も子爵の意に適(かな)うだろうと思う曲を選び、余り気乗りがしない松子を琴台に上せたが、真に迦陵頻迦(かりょうびんが)《極楽に住むという想像上の鳥、美女の顔を持ち、美しい声で鳴く》の声とは松子の技芸である。
子爵は既に倫敦(ロンドン)で聴いて知っては居ルけれど、聴く度に前より優る様に思われる。客一同も是ほどとは思わなかった様子で、皆非常に魅了され、一曲が終われば又一曲と所望して終に三曲まで重ねさせた。
若しも子爵の心が美術室で梅子に傾いて居たとすれば此の部屋では確かに松子に傾いた。松子が琴台(きんだい)《演奏代》から降りて来るのを子爵自ら立ち迎え、その額に接吻しして、我が傍に座らせたのでも分かって居る。
唯だ気の毒なのは瓜首俄(にわか)博士だ。彼は折角美術室で得た参考の好材料を、此の部屋で搔き消された様な気がして、今は頭を徳利の様に振る勇気も無い。振ったとしても出る知恵も尽きただろう。そのうちに夜も更けて、一同退散する事と為った。
瓜首は廊下で葉井田夫人を呼び止め、
『貴女のお考へは何方です。』
夫人『少しも分かりません。全く子爵が双方を一様に寵愛して居る様ですもの。何うか約束通り貴方の御鑑定に。』
瓜首『イヤ法律の鑑定とは全く違う事が分かりました。折角の材料が一刻一刻無効に成って行きますもの。結局は何うも投票で定める外は有りますまい。貴女と子爵と私と三人で。』
と云って、責任を元の通りの分担に逆戻りさせた。
之が最初の一夜の様子である。次の日からは何うなるだろう。
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