hanaayame53
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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五十三 静かに寝台の傍に寄って
勿論、次郎が此の部屋に寝て居ようとは、誰も知る筈が無い。知らずに入って来たその人は、草村夫人では無く、梅子である。
梅子は駒鳥に餌を遣り終わって、表から帰って来、その籠を庭樹の枝に掛けて置いて、此の部屋の横手にある、廊下を通った。爾(そう)して中を覗いて見た。
是は殆ど毎日の事である。覗いて若し子爵が居れば、その傍に行き、看病の積りで色々の話をする。話の大方は自分が朝の間に散歩した河の傍や、林の中で見た花や草木の景色などの事である。
子爵に取っては、少しも珍しくは無いけれど、それが一旦、梅子の清い美しい思想を潜(くぐ)って、その愛らしい口から出ると、全く天然に無い詩趣までも加わて、幾等聞いても聞き飽きない。丁度平々凡々な景色でも、天才の有る画家の筆に写す時は、自然以外の妙が現われ、目を離すに離されない様な気のするのと同じ道理なんだろう。
子爵に取っては、梅子の話が、気の結ぼれを解く、お薬の様な者だ。
毎(いつ)もの通り梅子は、部屋の中を覗いたが、子爵が寝て居る様に見えたので、扨(さ)ては、病気が重くでもなったのかと、気遣って密(そっ)と戸を開き、静かに寝台の傍に寄って顔を見た。
何うだろう、子爵と思ったのは子爵では無い。此の時の梅子の驚きは、大変なものだった。けれど全く見知らない顔とも思えない。痩せて青白く衰えては居るけれど、幾度と無く、美術室の肖像画で見て知って居る、次郎の顔である。
彼より外に、此の様な顔を持った人が有ろうとは、思われない。けれど彼は、早や此の世に無い人である。爾(そう)すれば誰だ。幽霊ででも有ろうかと迄に怪しんだ。やがて怪しみが、恐れと為り、殆ど叫び声を出そうとしたが、訳も無く臆病な質(たち)では無い。又端下(はした)無く自分の身を取り乱す事もしない。
我れと我が恐れを推し鎮め、余り足音のしない様に立ち去った。
爾(そう)して部屋から出ようとすると、葉井田夫人が、丁度ここへ帰って来て、梅子の前に立ち塞(ふさ)がり、溢れるほどの嬉しそうな笑みを浮かべながら、
『オヤ梅子さん、油断の成らない事ねえ。もう次郎さんの帰ったのを知って、逢いに来たの。』
梅子には冗談も通じない。
『何うかお通し下さい。夫人』
と泣く様に云った。
夫人『アレ何をその様に怖(こわ)がるの、次郎が生きて居て、帰って来たのですよ。何とか貴女は、歓びの挨拶をしなければいけません。』
梅子『オヤ次郎様が』
とは言ったけれど、まだ逃げようとして居る。
無理に夫人はその手を捕らえ、
『先アお出でよ。』
と云って連れて入り、自分と共に、次郎の枕許へ腰を下ろさせた。此の夫人の積りでは、若しも天然に信切な此の梅子に、看病させたなら、次郎の病気の為に、好いだろうと信じて居る。
恐らく梅子の看病で、直らない病人ならば、誰の看病も無益だろう。直ぐに夫人は、自分の知って居る丈の事を梅子に話し、
『折角此の通り帰って来たのに、若しも病気が長引く様な事が有っては、子爵の御心配が並大抵の事で無いから、貴女と私とで、一生懸命に介抱して、早く子爵が安心する様に仕て上げようでは無いか。』
梅子は聞く事毎に驚きつつも、初めて合点が行き、生まれ附いている深い同情に富んだ心で、力の及ぶ丈は看病しようと云う気に成った。
『貴女が指図して下されば、私は何の様な事も致しますよ。』
と請け合って、梅子が夫人と顔を見合って居る中に、病人は目を覚まし、まだ夢か現(うつつ)か分からない様子で、梅子の顔を見詰めたが、
『梅子さん』
との一言が彼の口から出た。梅子は驚いたけれど、恐れはしない。直ぐに夫人の目配せを受けて此方(こちら)に向き、
『ハイ』
と云った。次郎は何だか、梅子の身体にも触れて見度いと云う様に、手を延ばしたが、直ぐにその手は力無く垂れてしまった。
爾(そう)して彼の口からは、
『アア貴女が介抱して下されば、直ぐに直ります。』
との語が漏れて、彼は又眠った。何だか気遣わしい様な容態である。
それは扨(さ)て置き、子爵の方は、庭の面へ出て、後から来た瓜首と、頻りに相談しつつ話して居る。相談は次郎の帰った事を、何う披露すれば好いかとの事に在るので、もう大方極まったと見え、子爵の顔には、此の頃絶えて見た事の無い様な、嬉しい色が浮動して居る。
『私はもう病気が直った様な気が仕ますよ。』
と子爵が云えば、
『それは何よりです。私は若しも貴方に、動悸でも起こさせては、医者の以前からの指図に背くと、非常に心配しましたが。』
と瓜首は答えた。
子爵『ハハハ、此の様な嬉しい知らせに、驚いて死ぬ奴が有りますものか。併し次郎の容態の方が心配なので。』
瓜首『イイエ、一眠りして目が覚めると、中々元気が回復して居ますよ。先刻も爾(そう)でした。たとえ急に全快とまでは行かないにしても、葉井田夫人の看病ですから、仕損じなどは決し有ませんよ。』
子爵『私も爾(そう)は思って居ます。では先ず客室へ行き、草村夫人や松子や民雄などに披露しましょうか。』
瓜首『そうですね。此の様な披露は、早い方が好いのです。』
子爵『松子が何の様に感じるか。その感じ方の様子で、本当の気立てが分かると云う者だ。民雄の方は喜ぶでしょうが。草村夫人が何うでしょう。』
夫人が何れほど大変かと云う事は瓜首が好く知って居る。
『一時は厭な顔を成さるでしょうが、併し貴方が今仰有(おっしゃ)った通り、夫人へも松子へも、爾(そう)して梅子の方へも、充分に手当てして一同を帰せば、誰も恨む事は出来ません。貴方のお手当は好過(よす)ぎますもの。』
此方(こっち)で好過ぎると思っても、成るほど好過ぎと感ずるような夫人では無い。
子爵は、
『爾(そ)うだろうか。先ず披露してやろう。』
と客間に入った。此の時の子爵の顔には、先ほどよりも又、一層の喜びが見えて居る。
時間の経つに従って、益々味が分かって来るらしい。今まで楽器に向かって居た松子は、民雄にも離れて直ぐに子爵の傍に来た。草村夫人は、先刻自分がタイムズを盗んだ時の子爵の顔と、今の顔とが並々ならぬ相違が有るので、
『扨(さ)ては。』
と早や神経を動かした。
とりわけ瓜首が附いて居る所を見ると、爾(そ)うだ、此の家のタイムズは焼いたけれど、瓜首の家の物迄は、手が届かなかったから、彼が持って来て、子爵へお目に掛けたのかも知れないと、隅から隅まで良く行き届く例の心で、忙しく考え廻した。
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