hitonotumajyo5
人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(序篇)五 「うき世の重荷」
縦(よ)しんば弟次男が此の令嬢の為に此の家へ来るとしても、令嬢の方で次男を何とも思って居ないのは確かであると、丈夫(じょうぶ)は大いに安心した。安心はしたけれど、何故にイヤ何の様に此の令嬢が次男を非難するのか、兄と云う身分に対しても聞かなければ成らない。
丈夫「次男の何の様な所が貴女のお気に召しませんか。」
令嬢は慌わてて失言を謝する様に、
「イヤ、御立腹成さってはいけません。何も別段にここが悪いと云う廉(かど)が有るのでは無いのです。次男さんでも私共の波太郎でも、何だか浮か浮かし過ぎる様に思いますので、常に私は一様に云うのです。何うかお気に障ったらお許し下さい。」
丈夫「何で気になど障りますものか。そう云って下さるのを非常な御親切と思いますから、最っと詳しく伺い度いのです。先ア主に何の様な所が御不賛成です。何うか良くお聞かせ下さい。」
輪子は止むを得ないと云う風である。
「イヤ全く、別に是と云う廉は無いのです。多分は私しの自分の心が厳重過ぎて、思い遣りが足りない為に、悪く無い事まで悪い様に見えるのでしょう。実際若い人は大抵アノ様な者かも知れません。けれど波太郎も次男さんも、物事に少しも真面目な所が無く、責任など云う事には思いもやらず、唯だ浮々と其の日其の日を面白く送れば好いと、思って居る様に見えるのです。それが為に、常に自分の為をのみ計って居て呉れる人へ、何の様に心配を掛けるかなどは、少しも考へもせぬ様に見えて、誠に私は気遣はしく思います。」
若し世に丈夫の心を動かすに足る言葉が有るとすれば、輪子の此の言葉が確かにそれである、全く丈夫の云おうと思う通りを云うのだ。平生丈夫が弟に意見する言葉も之に外ならない。
けれど実際を知れば少しも怪しむには足りない。輪子は常に次男から丈夫の真面目な厳重なそうして親切な気質を聞いて居る。
のみならず次男が時々は、兄が自分へ意見する真似などをするので、輪子は次男から聞いて居る事葉を、まるで鸚鵡の様に繰り返して居るのだ。
とこう云えば読者は輪子に愛想を盡(つか)すだろうが、全く輪子は此の通りの女なんだ。此の様な女は随分世に類の無い訳では無い。
序(ついで)だからここで輪子の事を打ち明けて置くが、仲々口も旨く、或る事柄には機転も良く利くけれど、嘘を吐く事は何とも思わない。そうして随分我儘(まま)である。シタが綺倆はそうさ、綺倆は先ず十人並みとは云えるだろうが、決して美人の仲間へ入る資格は無い。
顔の輪郭は相当だが、イヤ輪郭ばかりで無く目も口も鼻も耳も一つ一つに評せば別に欠点は無い。無いが併し、何とやら美人で無い。それに顔の色艶なども何と無く引き立たない。又その身の日頃の振る舞いにも、随分欠点が沢山ある。唯だ其の欠点を隠すのに妙を得て居るのだ。
朝起きると第一が化粧で、顔の色の引き立たない所も、充分引き立つ様に染て出る。けれど染て居るとは勿論見えない。凡そ十四、五の時から人に本当の素顔を見せた事が無い。そうして衣類も自分の顔の引き立たせる様なのを選ぶのが余程上手だ。
此の家へ来る人が、初めは大概感心する。美人の中にも数える。けれど永く居ると必ず地金を知る事が出来る。地金を知ると余り傍へ寄り添わない事になる。詰まり云うと物事が上手過ぎて却って下手よりも劣るのだ。
丈夫はこうと知る筈が無い。此の嬢の言葉を聞けば聞くだけ、自分と気が合った様に思い、殊に一家の重荷を一身に引き受けて、人の心配まで自分の心配としなければ成らない境遇に立って居る様が、本当に自分と良く似て居る。もしも此の様な令嬢と共に浮世の重荷を背負って行くことに成れば、必ず重荷も苦になるまい。苦労も却って楽しみの一つに成ろうとの心が、丈夫の胸に浮かんだか浮かばぬか。余り心を外に現さない男だから、是は疑問である。若し起こさぬなら幸ひと云ふ者だ。
言い終わった時には輪子の目には何だか涙が浮かんで居る様に見えた。其の涙を見せまいとする様に旨く素振りをした上で、
「誰にも此の様に、打ち明けては話ませんよ。話す丈でも幾等か心配が軽くなる様に思いますけれど、真面目に聞いて呉れる人は無いのですもの。貴方の様な方に聞いて戴き、そうして一言でも励まして戴けば何れほど嬉しいか知れません。」
と悄然と打ち凋(しお)れ、云はば海棠の雨に悩めると云う風情を見せて、又急(たちま)ち気の附いた様に、
「オヤ、先ア此の様な陰気な事ばかり申して初対面の方に、本当に済みません。何うか御許し下さいまし。」
丈夫は全く真面目である。
「イヤ何も済まぬなど仰る所は少しも有りません。こう隔て無くお打ち明け下さったのは此の上も無い私の面目です。若し少しでも貴女の力になる事の出来る様な場合が来れば、私も嬉しかろうと思いますーーー。」
と云ひ掛けたが又暫く考へて、
「イヤ其の様な場合は決して来る筈が有りません。此の後何時お目に掛れる時が来るか其れさへ分からず、多分容易には来ないだろうと思います。」
輪子は此の時ばかりは真実に残念な想いして、
「そう仰有らずに、是を御縁に何うか屡(しばし)ばお出で下さい。父がお目に掛ったなら、必ず今夜も晩餐の時までお引き留め申しますよ。是非ともんねえ、次男さんの様に度々此の家へお遊びにお出で下さい。」
丈夫は一寸時計を出して見、
「イヤ最う一時間になりますけれど、未だ博士のお出でが無いのは、私しに御面会下さるのを迷惑に思って居ると見えますよ、用事の次第は手紙で申し上げる事にして是でお暇に致しましょう。」
輪子は全く慌てて、
「父が貴方に面会を好まぬなどと其の様な事が有りますものか。今少しお待ち下さい。」
丈夫「それでも何だか御面会を御厭(おいとい)の様に考えられます。そうでも無くばーーー。」
輪子「私が是ほどに申しますのに、それでもお聴きなさらないとは余りーーー。余りーーー。私へお酷いでは有りませんか。」
幾分の恨みをも帯びて聞こえる。此の様に云われては、無理に帰るも無作法では有るまいかと、聊(いささ)か心の鈍る所へ附け入って、
「是非とも晩餐までお出で下さい。お出で下さらずば貴方が父を憎んでお去り成さった様に私は思いますよ。」
そこまで思われるのは聊か辛い、と云って弟が大金の損失を掛けた家で、猶ほ馳走にまで成るのは気が済まない。大なる事務に掛けては決断の早い男もこの様な些細な事柄に却って決して兼ねる場合が多い。
聊か躊躇して居る所へ、宛(あたか)も好しか宛も悪しか、大津博士が入って来た。輪子は恨む様に、
「阿父(おとつ)さんが余り遅い者ですから、もう少しでお帰り成さる所でした。私が是非晩餐までお出でなさいと申すのもお聴きなさらずに。」
と殆ど無作法な程に云うのは、父に是非とも此方を晩餐まで引き留めよとの謎で、確と釘を打って置く様な者だ。
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