ningaikyou125
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第百二十五回 再度の結束
「私だけはお言葉に従い、ここでお別れとして本国へ帰りましょう。」
と潔く承知した平洲の言葉は、何(ど)うやら様子が有り相なので、夫人はまだ危ぶむように、平洲の顔を見詰めると、平洲は殆どその眺めに敵することは出来ず、顔を傍向(そむ)けて茂林に向かい、
「君は何うする。」
と短く問うと、茂林は忽(たちま)ち平洲の真意を察し、
「僕も仕方が無い、夫人のお言葉に従ってここから本国に帰るとしよう。」
夫人は容易に我が言葉が受け入れられた事を喜び、初めて安心の色を現し、
「そう仰(おっしゃ)って下さることこそ本当の親切です。是れで私も身軽と為り、無事に遊林台(ユウリンダイ)へ入り込む見込みも附きました。今までの御恩は何と謝しましょうか。イヤ命を捨てても謝し尽くす事は出来ませんが。」
と言う中にも平洲と茂林は目と目で心を通わせ、何やら打ち合わせつつ有るので、夫人は忽(たちま)ちそれと気付き、
「イヤ貴方がたは、本国へ帰ると云って私を安心させて置き、そうして私より先に、忍んで敵国へ入り込むお積りでは有りませんか。」
と流石機敏な質だけに、星を指す様に問うと、平洲は非常に真面目に、
「イイエ、全く帰国するのです。但し帰国の道筋だけは吾々の自由に任せて戴かなければ成りません。吾々は成る丈近く、成る丈面白い道を選ぶ積りですから。」
是れ丈聞いて夫人は何も彼も悟り尽くし、
「イヤ、之が帰国する近道だと云い、矢張り遊林台へ入り込むお積りでしょう。」
平洲は断固として、
「ハイ、吾々は遊林台を南方へ通り抜ければ、必ず残日坡(ザンジバル)の港へ出られると確信して居ます。残日坡(ザンジバル)迄行き、そこから船で帰国するのが、何よりの近道に相違有りません。」
茂林も此の語を補い、
「ハイ残日坡(ザンジバル)から船で帰る近道が有るのに、それを捨てて元来た道へ引き返すなどと、その様な回りくどい事は到底できません。」
と断言した。
夫人はここに至り、到底二人を追い返す道は無い事を知り、双眼に熱い涙を浮かべて、
「イエ、お二方が遊林台の危険を知り、それでもまだ入り込むと仰るのは、日頃の御気質として無理は無く、全く私の為め命をお捨て成さる覚悟です。私は何うかお二人に命までも捨てさせ度くは無いと思い、アノ様に申しましたが、そうまで思って下さる者を、それでも駄目だとは申されません。ハイ死ぬ時には三人で手を取り合わせて死にましょう。」
と云い、両の手を差し延ばすのは、真実両人の親切に感じ、分かれて死する心無しとの意を明かす者に違いない。両人は胸に迫ってまた一語をも発する事が出来なかった。双方からその手の上に伏して俯向き、熱い涙をハラハラとその甲に注ぐのは、心と心が融解し、感極まって悲しさが催おしたものに違いない。
真に此の瞬間こそ二人の為には、国を出て以来曾て無い所である。此の後と雖も再び夫人の手を、この様に握る事が出来る時が有るかどうかは分からない。その時すら定め難いので、二人は暫しの間自他の区別も、生死の別をも忘れ、最早や夫人の為に死ぬ外、世に目的は無いとまで思った。
やがて二人は我に帰り、静かに夫人の手を放したが、却って恥ずかしい感じがして、殆ど夫人の顔を見る事が出来なかった。眼を垂れたまま双方から、
「もう夫人は何の御心配も有りません。若し人間業で芽蘭男爵が救われる者なら、必ず我々が救います。」
と声を合わせて誓い、後退(あとずさ)りをして帰ろうとする許りに畏(かしこ)まって退出したが、是からは唯だ「死地」と云う黒天女の国に進み入る用意をするばかりだ。用意と言っても外では無い、進軍の部署を定め、又ここまで送って来た巖如郎王に別れを告げるだけの事である。
この様な折しも再び魔雲坐の陣中で鯨波(ときの声)が起こったので、平洲と茂林はその方を指して行こうとすると、先刻別れた寺森医師が横合いから出て来て、
「君等と夫人との相談は何う極まった。」
と問うた。
茂「勿論遊林台へ攻めて行く事に極まった。君は兼ねてから、黒天女を拝み度いと熱心に唱えて居たから、きっとそう聞いて本望だろう。」
「イヤ命に替えて迄も、黒天女を見度いとは思わないが、今更独り逃げ帰る訳にも行かず、仕方がなく同流するのサ。」
茂林は快活に、
「死に際には花々しく歌牌《トランプ》の勝負でも遣ろうよ。」
と云って笑いながら慰めると、歌牌《トランプ》と聞いて聊(いささか)か元気を出し、
「敵の首は切らなくても、歌牌《トランプ》を切って討ち死にしよう。」
と云い、更に又、
「オオ君等に相談する事が有る。帆浦女が巖如郎王に分かれるのが辛いと云い、独り泣いて居るが、此のまま捨て置けば、先に魔雲坐の朝廷へ押し掛けた様に、又巖如郎王に対し、何の様な失態を醸し出すかも知れない。」
平洲は苦々しく笑って、
「本当に始末が悪い。何うか寺森君、君が引き受け、帆浦女を煽(おだ)てるなり宥(なだ)めるなりして、確かに監督して呉れ給え。」
と非常に難しい役目を言付け、更に進んで魔雲坐王の兵営に行くと、彼は頻(しき)りに部下に向かい、遊林台に美人の多い事を説き、
「汝等妻帯を欲すならば、美人軍と戦って生け捕って帰れ。」
などと励ましつつ有った。進軍の用意は既に落ち無く整った様子なので、愈々(いよいよ)明朝を以て総隊が出発する事に定めた。
注;ザンジバル・・・タンザニア連合共和国のインド洋側の小さな島の町、アフリカ探検の拠点の一つ
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