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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(十五) 他人の空似です
眠り込んだ老夫人は、再び目を覚まさない。多分は嬉しさに気が緩(ゆる)んだのであろう。
網守子は胡弓を置き、
「貴方は、昔の古江田とか云う人に、余っぽど似ていると見えるわねえ。」
梨英「多分、祖母(おばあ)さんが、常に其の人の事を気に掛けて居る為、私の顔が、其の人の顔の様に見えたのでしょう。」
網「イイエ、祖母さんは、胡弓の音の聞こえて居る間は、気が確かで、思い違いなどは仕ないワ。」
梨英「何にしても、彼(あ)の様に喜び、是から此の家に幸福が続く様に安心成さったのは、私も嬉しく思いました。祖母さんの言葉を聞いて居る間は、全く私が、古江田利八と云う、旅人か知らんと怪しみました。」
下田の夫は考えながら、
「若しや貴方は、古江田の血筋でも引いては居無いですか。」
梨英は笑って、
「そうですね、私が古江田利八と云う者の、孫ででもあれば、鰐革の嚢を貰って帰りますけれど、生憎他人の空似です。」
此の翌朝、愈々(いよいよ)梨英は、別れを告げて此の島を去った。
彼は都に着いて後、如何に深く自分の心が、網守子に結(むすば)って居るかを知った。何事をしても、網守子の顔が目の前に浮かび出る。少し物事を考えると、直ぐ網守子の事に移る。此の様な事で、永く網守子と、分かれて居る事が出来るか知らんと怪しみ、再び島へ引き返し度いと思ったけれど、又思い直して、
「アア忘れる外は無い、忘れよう。忘れよう。」
と自ら云った。
網守子の方は、彼が去ると共に、自分の身が空虚(うつろ)になり、全く此の世が暗(やみ)になった様に感じた。何事も手に付かない。」
暇さえあれば船着き場の上に行き、初めて梨英と竹里とを迎えた時の様に岩の上に立ち、海を眺めた。けれど其の眼には、若い女の喜ばしい光が無い。今迄は島に育った癖として、出るにも入るにも、小唄を歌って居た。古い古い島歌で、別に何の意味をも感じない。けれど、其れでも口癖の様になり、軽い心が、声と共に空に浮かぶ様に思われた。其の歌声さえも今は出ない。
「今に貴女の好きな人が来て、独りで置か無い様に成りますよ。」
との梨英の言葉が、耳の底に残って居る。彼が再び此の島へ来るだろうか。舟着きの岩は大西洋に面し、都の空とは反対の方を望むのである。爾(そ)うと気が付いては、後ろの小山の絶頂に登り、梨英の居ようと思われる方を眺める事もある。
此の様にして、一日又一日と竟(つい)に十余日過ぎた。或日、舟を漕いで、隣島へ買い物に行った「子供」が、郵便局に留め置きであったのを、頼まれたと言って、一通の手紙と、一個の小包みとを載せて帰った。
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