simanomusume72
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(七十二) 何方(どっち)が赤面
現在、我妻へ自分が他の女に結婚を申し込む所存を明し、其れを助力せよと命ずることは、何と言う無情で有ろう。けれど今の添子は、其れを怒ることの出来無い位置に居る。若しも江南に捨てられては、身の振り方さえ無いのである。
彼女は答えた。
「貴方に金さえも貸さ無い女が、貴方の妻に成ろうと言う筈は無いだろうと思います。ですから私は安心して賛成します。」
江南「私の方は、唯婚約が出来た様に、世間へ見せ掛ければ好いのだから。たとえ網守子が承知しなくても、宛(あたか)も承知した様に見せ掛ける手段は、外にも有る。」
添「ですが、其の様な事を言って、私を安心させて置いて、其の実、貴方が真実私を網守子に乗り換える様な心でも出したなら、其の時には、私は遠慮なく貴方へ復讐しますよ。」
何の様な復讐の方法を、持って居るのかは知ら無いけれど、添子の此の言葉は、何うやら底力の有る様に聞こえる。江南自身も復讐の意味を知って居ると見え、単に、
「其れは承知だ。」
と答えた。
此の様にして、二人の話は終った。更に江南は
「網守子に何か贈ろうと思うが、何の様な品が好いだろうか。」
添子は何やら考えながら、部屋の内を見廻したが、北の窓の下に在る、例の画面に目を注ぎ、突(つ)と立ち上がって其の前に行き、
「オオ此の画は真に良く出来ましたねえ。私の様な素人が見ても、波の飛沫(しぶき)が身に掛かるかと疑われる。是を網守子に贈れば。」
江南「イヤ、是だけは贈ることが出来無い。此の次の展覧会へ出して、世界をヤンヤと言わせなければ成ら無いから。」
添子は猶(なお)も画の前に立ったまま、見惚れて、
「何うして此の様な画が人間の筆で描(か)けるのだろう。それも法律学を修めて居た貴方の筆でーーー、是では専門に画の稽古をした世間の画家は、赤面しなければならない。」
何方(どちら)が赤面すべきであろう。
頓(やが)て添子は、江南の傍に帰り、机の上を彼れ是れと捜していたが
「アア是が好い」
と言って江南の自筆の原稿一枚を取り上げた。
江南「其れは是から印刷所へ送る次号の原稿だから。」
添「貴方は今一枚、ご自分んで書き直せば好いでしょう。貴方の詩は、網守子が惚れ惚れするように読み入って、私は一時、妬(ねた)ましい様な気がしましたよ。」
江南「そうか、網守子が私の詩を、惚れ惚れする様にーーー。」
添「あれ、貴方はそれが嬉しいのですか。声の調子まで変わってさ。」
江南「ナニ焼餅など焼く場合では無い、何しろ天才の自筆は非常に貴重な物で、バイロン卿の詩稿などは、一行でも半行でも、大金を以(も)って売買せられる。成るほど是を持って行くが好いだろう。」
自筆の詩稿が網守子の手に入れば、江南の身へ何の様な結果を来たらすだろうとは、神ならぬ身の知る由もなく、添子は終にそれを持って家に帰った。
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