巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime11

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.14

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         第十一回‎ 「永き疑問」

 扨(さ)ては彼れ、下林三郎、私と秘密に結婚した事を、法廷にて白状したかと、清子は驚いて新聞を取り落としたが、漸(ようや)くにして、再び取り上げて、その下文を読み下すと、

 此の異様な言葉に、弁護士は驚いて、
「そなたは独身では無いとは、妻が有ると言う事か。妻があるなら、何時何処で結婚したのだ。名は何と言い、今は何処に居るのだ、などと問いただすと、

 彼は将(まさ)に答えようとして、天を仰(あお)いだが、その儘(まま)泣き声を発し、エエ、此の様な残念な事は無いと言って、摚(どう)と大地に伏し、後は唯だ声に咽(むせ)んで、何事をも言う事が出来なくなってしまった。」

と有る。そうすると彼れは、将(まさ)に白状しようとして、何事かの為に、白状を見合わせたものに違いない。新聞は更に付記して言う、

 「彼、下林は先に、「愛那旅館」で捕縛された時も、懐中から草花を取り出し、之を我が妻に与えよと言って、宛(あたか)も最愛の妻があるかの様に、警察官の前に、その草花を投げ付けたとの事であるが、

 今また最後の場合になって、独身では無いと言い、我の為に悲しむ者が一人ある、など言うのは、或いは何かの為に、秘密の妻を隠して居るのではないか。そうだとすると、その妻こそ、此の世で最も不幸な身の上であるので、今頃はきっと、その堕落とその身の不幸とに、泣いて居るのに違いない。

 しかしながら、彼、下林は、人を欺(あざむ)くのに、巧みな者なので、一般の人の見立てに依れば、彼は初めから、罪から逃れられないことを知り、妻がある様に見せ掛けて、法廷からの憐憫(れんぴん)《あわれみ》を受けようとする、策略に違いないと言っている。

 真に妻が有るならば、たとえその妻が、自ずから名乗り出なくても、他に誰か知人が居るはずだし、又、彼れ自(おのず)ずから、妻の名と居所とを述べるべき筈である。之を述べないのは、居ない者を居るように見せ掛ける為であるとの、世人の推量を強くするに足りる事だ。

 しかしながら、詐欺師の為す所は、到底常人の心を以て、推(お)し測る事が、難しいものだから、彼が二回まで、妻がある様に見せ掛けた振る舞いが、真実であるのか、将(はた)また、芝居なのかは、永く疑問として存ぜざるを得ない。そのうちに、此の疑問を判断するのに足る、新事実を報道するのに、手柄を現すことになるだろう。」
云々。

 彼が遂に私の名前を白状せずして終わった事丈は確かである。しかしながら、長く一種の疑いを、世に残した事も明らかな事なので、此の雑報を読み終わって、清子の心の苦痛は、増しこそすれ減じはしなかった。

 何時自分が、盗人の妻である事が、露見するかは知れ難く、だからと言って、露見を防ぐ方法は、露ほども無い事なので、我が命のある限りは、此の苦痛の消える事は無い。

 露見と共に自殺するのが、唯だ一つの逃げ道である。それまでの間に、苦痛に疲れ、衰えて死ぬ事でもあれば、何よりの幸いであると、自分の命の尽きるのを、天の救いと心得て、何も彼も諦めるに至るのは、十六歳の少女の身には、非常に悲しむべき運命であると言うべきだろう。

 是からは、清子の有様は全く変わり、唯だ柔順に、唯だ陰気に、何事も友子にのみ縋(すが)って、自分の意志と云う様なものは全く無くなり、明け暮れ物思いに沈むばかりなので、友子は非常に心配した。

 その詳しい事情は知る由も無かったが、兎に角、アイナの地が、清子の身には適さないことは明らかなので、河畑郷にある清子の家に、帰り行く事にしようと言って、その意を清子に相談すると、清子は唯だ、

 「何うなりとも、貴女の宜(よろ)しかろうと思う通りに、して下さい。」
と答えるのみ。なので、再び父良年に手紙を送り、その承諾を経て、愈々(いよいよ)河畑郷にある、家に帰ったのは、予定の逗留の僅(わず)か半分が、終わる頃であったが、家の人々は帰りの早さよりも、清子の顔色が、非常に青くて、唯だ悲しそうに見えるのに驚き、非常に心配した。

 又清子は、住み慣れた家の有様を見るに附け、自分が非常に楽しかった時の事を思い、益々今の身のつまらなさを知り、未来の希望が非常に豊かな少女として、家を出た身が、二か月と経ぬうちに、此の世に身を置くことも難しい、盗人の妻となって帰って来たことを思うと、悲しいことと言ったら限りなく、人と言葉を交わすのも厭(いと)わしくて、一室に閉じ籠り、成るべくは、人に顔を見られない様して、つまらなくて億劫(おっくう)な日を送った。

 此の間に、日一日、月一月、後悔の念を増さない日は無く、何故に愛しもしない人と、生涯の大約束を行い、取り消すのに方法も無い、秘密の婚礼を行ってしまったのだろう。何故に継母(ままはは)と言う名に驚き、その人の心柄をも見極めずに、又とないほど親切に良く行き届く友子に、復讐などを思い立ったのだろうと、身を責める一方なれど、如何ともしようが無い。

 時には又あの下林の事をも思い出し、彼が法律に問われた詐欺盗賊の罪は非常に重いと雖も、その罪ある身を以て、私を愛し始めた罪は、猶更(なおさら)重い。それさえあるのに、言葉巧みに私を欺き、何時捕縛せられるとも知れない身を以て、強いて私に婚礼を承知させ、私に生涯を誤らせたことを、少しも可哀そうだとも思わない事は、言語に絶えたる振る舞いにして、憎んでも憎み尽くせないなどと、心中の煮え返るほど恨めしく思うこともあるが、

 唯だ恨むのみにして、恨みを返す道もないので、何時もその果ては涙となり、眠られない夜を幾宵、心の鎮(おさ)まらない日を幾日、長き長き思いで漸く二年の月日を過ごし、愈々(いよいよ)父が、オーストリア駐在の任期が満ちて、帰り来る時とはなった。



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