巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime19

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.23

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          第十九回‎ 「寸前暗黒」

 清子と春川大尉との間は、唯だ此の一夕のパーティーによって、数年相親しむ友の様に打ち解けた。此の後、所々のパーティで逢う毎に、親しみは益々深くなり、大尉も清子の傍を離れまいとすると、清子も離さない様にしたので、互いに次の逢う時を非常に待ち遠しく思う様になった。

 是れは言う迄も無く、清子が深く恐れていた、愛情の兆しであるが、清子は少しもそうとは悟らず、唯だ人と人とが相親しむ友達の情であって、男女の愛では無いと思って居た。

 若し曾(かつ)て考えた様に、自分に愛情の兆すことがあれば、直ちにその人と遠ざかり、その愛を芽萌(めばい)の中に揉み消そうとの決心が、今もまだ有るのならば、最早や春川と遠ざからなければ成らない時であるのに、唯だ春川と相交わる楽しさに、それ等の事を思いも出さないのは、既に忘れては成らない誡めをさえ、忘れる迄に、心が酔っているからではないか。

 此の愛は益々熟して行ったので、遂には如何なる事と成ることだろう。誰も邪魔する者は無いけれど、清子の身には、定った所天(おっと)が有る。その人は、今は生死も知れないし、居所も分からないとは言え、夫婦の縁が明らかに切れてはいないので、他の人と婚礼をすべきではない事は、言うまでも無い。

 後に至って、その人が現れて来ることが有ったならば、自分の身は、立場も無い状態に陥るに違いない。しかしながら、酔っている人が、自分が酔っているのを知らない様に、愛に迷っているのに愛を知らず、嬉しい日々は過ぎ易くて、早や社交の季節も過ぎて行き、父良年に連れられて、田舎の別荘に退いて行った。

 此の別荘は、前の河畑子爵家に属したもので、庭園も非常に広く、樹木も有り、水もあり、第一級の仙境にも譬(たと)えるべき所であるが、清子に取っては、春川大尉の来ない所には、楽しみは無い。何となく物足り無い心地をしながら暮らす中、今日春川が来るとの事を聞いた。

 愛は逢い見る度に募り、逢い見ない度に猶更ら募るとか言う。暫(しば)し相見ないで居る間に、幾倍の深さを加えたと見え、愈々(いよいよ)春川が来ると聞いては、居ても立っても居られない様な、身の落ち着かない心地がして、幾度か窓を開き、幾度か時計を眺めなどするうちに、漸(ようや)く日の暮れ方となり、愈々春川は到着した。

 今日こそは、縁談の申込みに来た事は、今までの事情から明らかなので、良年も友子も、先に断った楠原公爵より、更に優れている天然の大人物を迎える時だと、心に深く喜んだが、そうとまでは清子には知らさない。

 若し知らせたなら、清子は忽ち自分の立場を思い出し、如何に自ら苦しむか分からないが、知らせない丈今もって夢中の有様で、唯だ春川が来ると共に、春風も春水も、一時に来た様な想いを為し、日頃の沈んだ様に似ず、先に立って出迎えなどするのは、一寸先が如何に暗黒であるかを知らない者にして、又憐れむべき限りなり。

 春川は一通りの挨拶が終わりった後、少し良年に話が有ると称し、共々に一室に隠れたが、ややあって、双方非常に満足の面持ちで客間に出て来たのは、既に縁談の事に附いて、良年の内意を聞いて、充分な賛成を得た者に違いない。

 此の時客間には、早や火を点(とも)し、此処に両人の出て来るのを待っている友子、清子の外に、此の辺に大地主の息子鶴山某と言う若田舎(わかいなか)紳士や友子の遠い縁家の娘で、名を綱子と言い、年は清子と略(ほぼ)同じで、暫く暑中の逗留に来ている女が居る。

 やがて総勢六人で食事を終え、雑談を始めると、良年は成るべく人数を少なくし、成るべく春川と清子とが言葉を交える機会を多くしようとの意図から、用事に託して自分の居間に退くと、友子も同じ考えから、引き退く用意の為め、口をつぐんで、何となく眠気を見せ始めたが、

 鶴山若紳士は更に、その辺の思い遣りはなく、都の紳士に劣らない、交際の技量を見せようとしてか、長く長く話を続け、自分の父の所有する田畑の事から、肥料の優劣を迄説き出だしたので、春川は耐え兼ねて、友子に向かい、

 「河畑夫人、月に乗じてお庭を拝見致しましょうか。」
と言う。
 友子はここだと思い、
 「イヤ私は疲れて居ますから、お若い同士でどうぞ。」
と答え、更に清子に向かい、
 「ご案内してお上げなさい。」
と言えば、

 若田舎紳士は、是も前から清子に思いを焦がし、勿論身分が違う為、縁談を申し込もうなどの野心は無く、到底及ばない者と諦めては居たが、少しでも清子に接近するのを、宛(あたか)も火取り虫が、燈火(ともしび)に接近して喜ぶ様に喜ぶ者なので、自分に好機会が与えられたものと思い、

 「イヤ樹木の説明は私の本領ですから、私もお供を致しましょう。」
と言いつつ、賛成を待つ様に春川の顔を仰ぎ見ると、春川の眼には凄まじい光があり、千軍万馬を叱咤する時も、こんなかと思われる許かりだったので、肥料先生は土竜(もぐら)が太陽に逢う様に縮み込み、少しもその場を濁さない為、綱子に向かい、

 「サア貴女と参りましょう。」
 綱「何処に行くのです。」
 「庭へでも運動場へでも、何処へでも。」
 綱「では運動場の方へ参りましょう。」

 是も気を利かせての返事に違いない。之で春川は漸(ようや)に機会を得、清子と共に庭の面(おもて)に立ち出でた。寸前暗黒とは全く清子の身の、此の時の形容に違いない。



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