巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime20

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.25

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         第二十回‎ 「夫婦との一言」

 風は涼しく月は清く、晴れ渡った夏の夜ほど、人の身に爽やかなものは無い。情けを知らない草木まで露に化粧し、月の影を宿そうとしている。そよ吹く風が吹いて、招こうとしている様に見えるのも、心があるように感じられる。

 手を引き合い、庭の面に歩み出た春川鴻と清子とは、風情ある景色に酔い、天地と自分が溶け合って、一体と成る様な心地がし、茫然として、行く所をさえ知らない有様であるが、春川は今夜こそ、我が生涯の幸いを、定めるべき時と思うので、無駄にこの機会を過ごしたくないので、

 「清子さん、此の庭の中で、最も貴女のお気に入った所は何処ですか。」
 清「茂りの外に、平らな芝地が有りまして、そこに池が有ります。池の堤に柳が垂れて居る所が、何処よりも居心地が好いと思います。」

 是は何時も清子が、独り春川の事を思いながら、独り喜びなどをする所である。
 春「ではその所へ行きましょう。」

 小径は木々の匂(にお)いが、非常に香ばしい間を通り、青梧(あおぎり)の葉を越して洩れ、涼しい影を踏んだかと見ると、直ちに裳裾に上って来るなど、真に得も云えぬ風情なので、二人は心に愛情が満々て、夢地を歩む心地である。

 やがて芝生の所に出て、池の涯(ほとり)に着くと、堤の水際の雪崩(なだれ)んとする所に、疎(まば)らに生えている柳がある。水の彼方に月を見て、柳も邪魔とはならない辺りに、腰打ち掛ける台も有るので、言い交わした訳では無いが、一緒に之に腰を卸した。

 暫しは静けさを破るのが惜しく、唯だ心と心の中に、楽しさを味わい合うばかりだったが、春川は池に澄む月を指さし、
 「若し思って居る事が、月の様に人の心に写ったら、何れ程か楽しいでしょう。」

 何の意味とも察することはできなかったが、清子は微妙な音楽を聞いて居る様に、春川の声が唯だ嬉しく聞こえ、自分も殆んど何の意味とも知らずに、
 「でも影を留めないとは、詰まらないでは有りませんか。」
誘う言葉と思ったか、春川は力を得て、

 「清子さん」
 清「ハイ」
 春「私は今夜を待って居たのです。此の心は良く貴女の心に写りましょう。初めてお宅へ来て、お近づきに成った時、宝物でも得た様に、非常に歓ばしく思いました。その後、親しみを重ねるに連れ、又とないほどの親しい友達となり、今では世間の人からも、友達としては親し過ぎるとまで言われます。」

 言って来る言葉が、何となく日頃の語調と異なった所があって、深く我が心に浸み入る様に思われるので、清子は顔を上げて春川の顔を見ると、ここにも日頃とは異なった色があった。

 威(たけ)きは虎の如く、愛らしさは、小児の如しと言われた顔が、更に融け和らいで、中から優しさが、溢れようとする様に見える。

 これ程まで、此の人が喜んで居るのかと思うと、その喜びは、直ちに自分の心にも反映し、我にも亦喜びが満ち渡り、身も揺るぎ出す心地あり。

 春「そうです。真に友達としては、親し過ぎますが、親しさが余ったのか、今は友達と云う丈の間では、控えて居られない事と為りました。清子さん、今夜私が、何故に此処へ来たかは申さなくても、分かりましょう。一刻も貴女と分かれては、居られない様に成った為です。愛に駆られて来たのです。」

 是だけ言って、少しの間、言葉が途絶えたのは、何と云ったら此の深い切なる心の中を、その通りに写し出す事が出来るかを知らなかった為に違いない。

 やがて、
 「貴女と私は、生まれない先から、結ばれて居るかと思います。貴女と分かれるのは、人と分かれる様な気がしません。全く自分と分かれる様です。再び逢うまで、心も魂も無くなります。初めてお目に掛かった時から、その通りで、時を経るに従って、募るばかりです。」

 またも言葉を止めて、清子の様子を見ると、全く我が愛に包まれた様に、顔の筋々が悠(ゆっ)たりと打ち寛(くつろ)ぎ、少しも抵抗する様な様子は無く、眼は眺める様に、宙宇に浮いて、恍たり。惚たり。

 夢と醒めるとの間に徘徊する人にも似ている。春川は最早や、我が愛は全く酬いられた。我れが清子を愛する様に、清子も又我を愛すと思い、その身も恍惚として言葉も出なかった。

 清子は全く夢心地である。春川の言葉を、一々聞き分ける事も出来なかったが、唯だ絶えつ続きつする天界の音楽を聴く様に、耳に快く、心に爽やかさを覚え、此の音楽がいつまでも絶えないでほしいと、思う心だけが我が心だと、知るに止まって居たが、次第にその意味は明らかになった。

 春川が私を愛しているのだ。私も春川をーーー愛している。愛耶(あいか)、愛耶、そうだ愛である。友として親しむ一念は、何時の間にやら、男女の愛となって居たのだ。嗚呼「愛よ」「愛よ」との短い悟りは、清子の心に、天啓の様に映った。

 今まで何事も知らなかった暗い眼は、忽ち開き、忽ち我が身が、嘆きも悲しみも無い、天国に出た様な心地がした。愛とは、これ程迄も、楽しく美しき者なのか。愛を知らずにどうして自分は、今まで生きて居たのだろうか。

 愛し愛せらるるは、人間に唯だ一つの恵みにして、之れが無くては生も生では無く、世も世では無い。今までは何も知らない少女であったが、今は愛を知り、生を知り、又世を知る楽しい一婦人に成長したと見える。此の愛が何時までも続いて欲しい。

 愛の外には世界もなし。嬉しくも嬉しやと又も春川の顔を見ると、殆んど我が為には身を以て、天地が崩れて来るのも、支えようとする決心が有るように見える。此の人の愛は、直ちに天国であると思われ、我知らず寄せ添おうとすると、春川は我が生涯の運を賭(か)けた場合だとして、更に居住まいを厳重に正して、

 「清子さん、是でもう貴女から、妻になるとの唯一言を聞けば、私は此の上もない幸福を得るのです。夫婦になると、サア何うかお返事をして下さい。」

 「夫婦」と云う一言は、清子をして、今まで全く忘れて居た、一の事件を思い出させた。
 「夫婦になれ、夫婦になれ。」
 此の語を聞くのは、確か今が初めてでは無い。此の前に聞いたのは何処だったろう。如何なる事情の下であったろう。何人の口から出たのだったか。

 清子の目の前には、邪険なセント・アイナの湾の景色がくっきりと浮かんで来た。盗人下林三郎の滑らかな顔も、今我が顔の前に差し窺(うかが)う様に浮かんで来た。

 嗚呼(ああ)、縦(たと)え少しの間だったにしても、何故にこの様な大事な秘密を、忘れて居たのだろう。私がどうして復(ま)た愛する事とか、夫婦になるとか云うような事が出来ようか。忘れて居た、忘れて居た。清子は首を縊(くく)られる時の様な声で、

 「エエ、私は忘れて居ました。全く忘れて居ました。」
と打ち叫び、狂人の様に立ち上がったが、足に足だけの力は無い。よろよろとして芝生の上に倒れたのは、真に是れ、人間の絶望の極みを、実物に描き出した者と云おうか。



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