巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime21

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.30

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          第二十一回‎ 「我身には何の罪ある」

 全く愛の天国に入り、嬉しさが満々ちて、身も心も夢の様に浮き立った最中に、忽ちその嬉しさを打毀(うちこわ)す様な恐ろしい秘密を思い出しては、悲しみ嘆(なげ)かないで済む者が有ろうか。清子が打ち叫んで、打ち倒れたのも道理である。

 春川は此の様子に非常に驚き、早速清子を抱き起こしながら、
 「清子さん、何う成さった。私の言葉に驚きましたか。」
 清子はまだ縊(くび)られる様な声で、

 「イエ、イエ、驚いてでは有りません。全く忘れて居たのです。」
 何事を忘れて居たのかは知る方法も無いが、春川は唯気遣い、

 「イヤ、兎に角私は気が荒い性分ですので、きっと今の言葉の中に、荒々しい語句が有って、貴女を恟(びっく)りさせたのでしょう。何うかその様な事は気に留めずに、エ、清子さん、機嫌を直して、今のお願いに返事して下さい。唯一言、妻になると、エ、清子さん。」

と云いながら、清子の顔を見ると、今までの嬉しく見えた艶は消え、殆んど死に瀕した人の顔かとも見えるので、更に大いに慰めて、他意も無い我が胸中を、訴えなければならないと思う折しも、

 彼方の茂りの辺(ほとり)に、人の来る足音がするのは、エエ、邪魔な彼の肥料先生が、綱子を連れて廻って来た者と知らる。非常に残念に思ったが仕方が無い。言葉さえ匇々(そこそこ)に、

 「今お返事を聞き度いとは思いますけれど、貴女の心の鎮まるまで待つとしましょう。真に私の生涯が、唯だ貴女の一言に掛かって居ますので、何うか明日、お返事をお聞かせください。」

 返事が必ず色好いものであろう事は、春川の少しも疑わない所だ。自分が清子を愛する様に、清子も私を愛している事は、今までの有様で、明らかであるが上にも明らかなので、

 たとえ明日が明後日まで延ばすとも、その所に少しも心配すべきところは無いと、春川は燥(あせ)りもせず、唯だ親切に清子の背(せな)を撫でると、清子は一語をも発することが出来なかった。

 人の足音はその間にも、愈々(ますま)す近くに聞こえるので、
 「此の様な有様を、あの人達に見られるのは良くないでしょう。彼等を私にお任せ成さって、貴女は静かにお休み成さい。」

 清子は無言の儘(まま)、首を垂れて家の方を指して去った。引き違いて来る肥料先生は、非常に残念の様子で、
 「オヤ、清子さんはもう家へお帰り成されましたな、四人で月を眺めながら、漫歩しようと思って来ましたのに。」

 春「ハイ、清子さんは、お疲れの様子で、今退きました。」
 言葉短く云い開いて、自分も家の内に行くと、先ほど一室に退いた良年も又来て、客間に居た。春川の首尾が如何なりしやと、聞き度い様子が無いことは無かったが、自分から問う程の、不作法はしなかった。

 春川も何事も顔に現さない様にして、事無く此の夜を送った。
 清子は家に入ると同時に、腰元を通して、父と友子とに疲れた為め、早く寝(やす)むとの言い訳を伝えさせ、直ちに我が部屋に閉じ籠り、内から堅く戸を鎖(とざ)したが、最早や見る人も聞く人も無いだろうと思うと、張って居た気も弛み、自ら身を支える力もなく、そのまま床に身を投げて、

 「エエ、情けない。」
と言って泣き伏した。どうして此の身は、これ程迄の責め苦に遭うのだろう。天は罪無き人を窘(いじ)めずと聞いて居たのに、我が身には何の罪がある。

 昔し唯だ父が再び婚礼すると云うのを聞き、継母(ままはは)を恐ろしいと思う一念から、之を拒もうとする心を決し、友子に辛く当たったのは、娘らしくないと云はば云え、自らはそれほどの悪事とも思わなかったが、

 天は下林三郎の様な、人を欺くのに非常に巧みな悪人を下し、世間知らずの十六歳の少女を欺き、イブを騙(だま)したと聞く、蛇の様に媚(こ)び、煽(おだ)て、賺(すか)し、嗾(そそのか)せて、終に秘密の結婚をさせ、私を盗賊(ぬすびと)の妻にまで成らしめたとは、邪険にも程がある。

 若しあの事さえ無かったなら、春川を愛し愛され、限りなき嬉しさの中に、彼れと名誉ある名を分かち、妻として歓苦を共にし、父にも安心させ、友子をも満足させて、身は愛の天国に入られる筈だったのに、

 唯だあの事が有ったが為に、婚礼と云う、名ばかりの婚礼に生涯を縛られて、世間に聞いた事もないほどの、浅ましい境遇に此の身を葬らなければならない。

 切めてはまだ、春川と親しみが深くならないうち、今が愛情の兆しだと気づいたからは、如何に辛くても、兼ねて思い定めた通り、自ら遠ざかって、此の苦しみを逃れる事が出来た者を、気付かなかったのが、自分の鈍(おぞま)しさとは云え、

 今と成っては、我が心よりも我が愛は強く、身を切って捨てるとも、此の愛を切り捨てる事は出来ない。今から後の幾年々を、春川に逢わずにどうして送る事が出来ようか。

 今までの辛苦さえ、身に余る程に思っているのに、後の限りなき歳月を、更に二重の苦しみに埋めなければ成らないとは、忍ぼうとしても、忍ぶことが出来ようか。

 「否だ。否だ。此の様な辛い天命に服するのは否だ。これ程までに、苦しめられて許(ば)かり居る様な身に、生まれて来たのではない。」

 身を悶(もだ)えて苦しんだが、やがて一種の決心に、跳ね起こされる様に立ち上がり、細い拳(こぶし)を握り固めて、
 「世間には、私より上の悪事を為しながら、私の身ほど苦しまずに、天命を蹂躙(ふみにじ)って、無事に暮らす人が、幾等も有る。何にも私一人が正直に、無理な窘(くるし)みを受けて居る事はない。」
と云い、

 今までに無い大胆な思案を初めようとするのは、必死の時に出ると云う、必死の勇気でもあろうか。そうだ、天命を蹂躙(ふみにじ)って、今春川と婚礼したからと言って、誰も我が身の秘密を知る人は居ない。それに彼との秘密は、それほどまで重いものでは無い。

 唯だ秘密に、婚礼の式場に立ったと云う丈で、夫婦として、手を携えたのも、唯の三分か五分の間である。夫婦の実は少しも無い。この様な婚礼が、何で今まで私の身を縛るに足ろうか。

 況(ま)してや、所天(おっと)たる彼、下林は野下(のげ)と云う偽名を用い、私に本名をさえ知らさなかった。婚礼にも多分は偽名を用いたに違いない。そうだとすれば、私の身は、野下と云う此の世に無い人、空の人、人ならぬ人と婚礼したものだ。

 此の婚礼は神の目にも、人の目にも、我が目にも、将又(はたまた)法律にも、全く無かったものと同じく、全く無効のものでは無いか。たとえ無効では無いとしても、彼下林は最早牢屋に死んだかも知れない。

 そうだとすれば、私は寡婦にして、自由の身である。彼、若し死んでいなくて、現れ来たるとも、まさか私を妻であると言い張り、引き連れに来る事は無い。来たとしても、私が既に、春川夫人と為り、所天(おっと)の姓に改めれば、彼れは私を捜し出すことさえ出来ないに違いない。

 彼れの刑期は十年にして、まだ全く七年を余して居る。七年の間には所天(おっと)春川に説いて、外国に引き写り、彼が到底捜す事が出来ない様に、用意を廻らす道もあるのではないかと、漸く思い定めて見ると、今まで此の思案が浮かばなかったことが、愚かに思われるばかりだった。

 此の後に、最早心配すべき所は無い。
 「そうだ。そうだ。下林の様な悪人と婚礼したのが、たとえ罪だったかも知らないけれど、今までの苦しみで、私の罪はもう亡びた。天も此の上は咎めないだろう。
 明朝は直ちに春川さんへ、妻になるとの返事をしよう。」
と云い、漸(ようや)く顔の苦しそうな色を消した。



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