巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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yukihime22

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.01

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         第二十二回‎ 「否、否、否、断じて否」

 清子は愛に眼が眩(くら)み、遂に春川の妻になる決心を起こした。秘密は秘密の儘(まま)に伏せて置き、彼と嬉しく夫婦となり、この後を楽しく送ろう。

 「何も大した悪事ではない。人の身には有り勝ちの事だ。」
と打ち呟(つぶ)やき、漸(ようや)く、顔に笑みを現すことが出来るようになったが、その笑みは、却って見るも気の毒な程、淋しい笑みである。

 思案が定まると共に、ホッと息し、立って行って、窓に寄りかかって、逆上(のぼせ)た顔を、風に吹かせると、夜はもう更けたと見え、先ほど春川と自分との私語を照らしていた月も、西に沈んで、空は星の光が消え行き明けようとしている。

 此の世の狭さに引き換えて、アア天は何と広くして、美しいのだろう。若しも春川と夫婦となった後で、恐ろしい秘密に附き纏(まと)われる事があっても、人生は何時まで続くか分からない。

 そのうちには死して天国に上り、広々と限りない幸いを受ける時も来るだろうと、自ら慰めて、蒼穹(あおぞら)の広さを眺める折りしも、又たちまち、厳かな誡めは下って来た。

 秘密を抱いて、二重に婚礼する様な者が、死して果たして天国に上る事が出来るだろうか。否、否、否、断じて否。
 秘密の婚礼にもせよ、婚礼は婚礼である。悪人にもせよ、所天(おっと)は所天(おっと)である。
 
 その所天(おっと)が死んだならば兎も角も、死とも生とも分からないのに、又も所天(おっと)を持つのは、重婚である。二人の所天に従うことになる。この様な罪深い所業を為す者が、どうして天国を望む事が出来ようか。

 悪事を為す者に未来は無い。有るとしたら、必ず地獄の責め苦が有るばかりだ。その責め苦は厭(いと)わずとしても、春川鴻は誠意一方の人では無いか。此の人をして、その身を欺く様な、偽り多い妻を持たせるのは、その人を愛する道であるか。是も否、否、否、断じて否。

 清子は目が覚めた様に、我が決心の非なるを覚った。今まで苦しみと云う苦しみを耐(こら)え尽くし、人に雪姫とまで唄われるに至ったのも、何の為だ。唯だ一度の過ちを悔い、此の上に我が名を汚してはならない。我が心を汚さないと思えることだけの為に生きて居よう。

 今に及んで心が弛(ゆる)んでは、是までの苦しみも水の泡である。黙って苦しみ、黙って死せよ。是れは春川の言葉にして、私の生涯の誡めだと、既に肝に銘じた所ではないか。

 春川は当世第一の英雄として、誰も崇(あが)める所なれば、此の人の愛を得たことこそ、既に女として身に余る名誉である。どうして此の名誉をば、我が身の不名誉な所業を以て、汚すことが出来ようか。

 此の名誉に酬いることは、唯だ春川に恥じない様な、健気な心を以て、我が生涯を正すに在る。真に黙って苦しみ、黙って死する覚悟を以て、春川と分かれなければならない。分かれる外に、女たる我が道は無い。

 この様に思い初めては、一時たりとも、邪道に迷い入ろうとする心を起こした事が忌まわしい。嗚呼愛も夢、嬉しさも夢。覚めての後に、何を悔々(くよくよ)と思い煩(わずら)う事があろうか。

 夜が明けて後は、直ちに春川に断りを述べよう。そうだ、潔(いさぎよ)く断わるほど、心の安き事はないだろう。とは云え、春川に分かれた後、幾年と限りなき長の年月を、何を張り合いに送ったら好いだろう。

 春川と分かれることは、生涯に唯だ一度の、深い愛と分かれる事である。此の世と分かれるよりも辛く、我が生命と分かれるよりも辛い。死して此の世の苦しみを逃がれる事は誰も得しない。

 死せずして日又日、月又月、今日も耐え、明日も耐えて、苦しみと闘うとは、只思うさえ恐ろしい程であるが、是が我が身にとり、唯一つの道なれば仕方が無い。

 心が漸(ようや)くに定まったのは、既に朝餉(あさげ)の時刻に達した頃である。食事を終えて然る後、改めて春川に会う事にしようと思って、我が部屋を出ようとすると、一夜苦しみ明かした為め、神経が穏やかでない為に、足も身も戦(おのの)きて、進む事が出来なかった。

 此の様子では、食堂に入ったとしても、父と友子に怪しまれるのみなので、少し身を休めての後にしようと思い、紙筆を取り出して、春川に宛てて、

 「今朝は少し心持が何時ものようでは有りません。食堂にも行けそうも有りません。後刻池の傍でご返事申し上げようと思いますので、一時間ほど経て、昨夜の所まで御出で下さるようお願い申し上げます。」

 春川は之を得て、何となく不安に思ったが、今までの清子の様子を考え合わせれば、素より我が縁談を、断る筈は無いので、頓(やが)て又思い直し、食事が終わるや否や、後の楽しみを心に描いて、庭の面に立ち出でた。友子は此の様を見て、笑みて良年を顧り見、

 「何しろ清子の様な、顔も心も美しい女は、今の世に又とないから、之を我物にしようと云うには、少しぐらいじらされても仕方がないですワ。」
と言ったが、

 じらすと見える様子も無さそうな挙動の中に、当人の生涯を、悲しみの中に埋めようとする、憐れむべき決心を含んでいるとは、どうして知る事が出来よう。



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