巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime24

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.05

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         第二十四回‎ 「淵の様な隔て」

 清子の青ざめた顔の様子を見、春川は早や若しやと気遣(きづかっ)て、更に心の丈を訴えようと欲し、先ず上下の唇から力を込めると、清子は発言の暇を与えず、

 「春川さん、貴方の愛や御親切は、私しは有難た過ぎて、お礼の言葉も有りません、しかし私の身は何と有っても、貴方の妻と為る事は出来ません。」
と聞き損じの余地をも留(とど)めない迄に言い切った。

 日頃は音楽の様に美しい声であるが、此の時に限っては、弦が切れた死音である事から、言い切る心中の切なさを察するに余りある。しかしながら春川は、余りの事に誠のことだと思うことが出来ない。却って笑みを浮かべて、

 「そうお断り成さる様な、意地悪な貴女では有りません。先ア澤(たん)とお揶揄(からか)いなさい。その上で本当のお返事を伺いましょう。」

 清子は今更の様に、断るのも容易な事では無い事を感じ、形があるならば蹌踉(よろめ)くとも形容すべき声で、
 「是が本当のお返事ですよ春川さん。残念では有りますが、貴方の妻にはなれないのです。」

と再び言い切った。まだ春川は真実と思わず、揶揄(からか)っているのだとの、疑いだけは消えたが、多分は恥ずかしさとか、極まりの悪さとか云う様な、娘気の初々しさから出る、躊躇(ためら)いに違いないと思い、両手に清子の白い手を取り、

 「貴女はまだ、私の心を充分には、お知りなさらないのです。私は命までも捧げる積もりですから、若し貴女が死ねと仰(おっしゃ)れば、嬉しく笑みを浮かべて死にます。けれど此のまま、ここを立ち去ること許(ば)かりは出来ません。貴女を失うのは、命よりも、もっと大事なものを失うのです。」

 清「でも私は、貴方の妻に成ることが、出来ない身です。」
と三度言い切った。

 その様子は、恥ずかしさや悪戯(いたずら)の為では無い。落ち着いた様に見える中に、無量の悲しみを、押し隠していることは、唇の震えにも明らかなので、春川は初めて容易ならない場合と知り、自分の様子も我知らずに変わって、

 「私しを愛しなさらないのですか。」
と半ば嘆息を帯て問うその声さえも、他人の声ではないかとさえ思われた。

 清「イイエ、そうでは有りません。貴方が私をお愛し下さるほど、私も貴方を愛して居ます。ナニ此の様な事を申さなくても、イイエ、愛しませんと申すのが、此の場合に似つかわしくは有りましょうけれど、それでは欺くことに当たりますから、愛して居るものは愛して居ると、有体に申しますが、ハイ、愛して居ても、貴方の妻にはなれません。」

 四度言い切る顔の面(おもて)は、全く此の浮世に断念して、死をでも決心したかと、疑われるほど真面目にして、且つ不幸(ふしあわせ)そうなので、春川も恐れと悲しみと、両様に心が動き、

 「では清子さん、唯一つ問いますが、私の外に愛する方でも有りますか。」
 清「イイエ、決して。」
 春「今まで誰をか愛した事は。」
 清「それも勿論有りません。」
と力を籠めて言い切ったのは、その様な水臭い事柄は、問われるのも忌まわしいと思っている様子だった。

 しかしながら、若し春川が更に深く、
 「貴女は若しや、他の人と婚礼した事でも有りますか。」
と問うたならば、何と答えたことだろう。婚礼した事が有るぐらいの話では無い。今も現在、盗人の隠し妻である。

 そうとは云え、何人をも愛した事の無い少女が、既に婚礼を経て居ようとは、思い寄る筈も無いので、春川はその上を問う気も出ず、単に我より外の何人をも愛さないと云うのに力を得て、又勇み立ち、

 「それなのに、何故に私と夫婦に成れません。父上も満身の同情を以て、此の縁談に賛成すると云われました。」
 清「ハイ父が賛成して居る事は良く分かって居ます。」

 春「では何の方面から見ても、少しも夫婦に成られない訳は有りません。私の家柄にしても、御存じでしょうが、此の河畑家の先祖と同じ王の為に、共々に戈(ほこ)を取り、共々に戦場へ出た家筋です。そうして又資産の方から言ってもーーー。」

 清「イエ、イエ、春川さん、その様な事では有りません。と申しても何の様な差し障りからだと、御合点の行く様に説き明かす事は到底出来ませんが、唯だお察しを願います。

 ハイここでお分かれに致しますのは、貴方よりも私が辛いのです。辛いのに此の通りお断り申すのですから、良く良くの深い訳だと、何うぞ、何うぞ、お察し下さってーーー。」
 言葉の終わりは泣き声と為って消えた。

 春「では猶更(なおさら)私の妻にお成りなさい。こうだと説き明かして言われない様な差し障(さわ)りならば、本当の差し障りでは無く、単に思い違いです。夫婦に成れば消えて仕舞いますよ。」

 清「ハイ、思い違いで有って呉(く)れれば好いと、私は天に祈りますけれど、悲しい事には、思い違いなどの、有り得ない真実です。もう何も云って下さるな。唯だ是だけは打ち明けますが、私の身には、消すに消されない秘密があるのです。その秘密の為に、貴方と分かれなければ為りません。」

 春「エ、秘密、秘密などは、百あろうが千あろうが、構いません。貴女は、世間慣れしていないから、少しの事を大げさに思うのです。その秘密を私へお任せなさい。任せれば、私しが何の様にでもしますから、エ、清子さん、秘密の為に、私の妻にならないという筈は有りません。

 たとえ真に重大な秘密にしても、貴女独りで堪(こら)えて居るから重いのです。夫婦二人で忍ぶなら、苦にする所は有りません。」
 清「イエその様な秘密とは、秘密の質が違います。どうしてもその秘密の為に、婚礼が妨げられます。ハイ婚礼が出来ません。」

 春「とは先(ま)アどの様な秘密ですか、お聞かせ下さい。私に聞かせて、少しも悪いことは有りません。」

 清「イエ、そうまで御親切に仰って下さるのに、打ち明けないとは、済まない様ですが、生涯口外しない事に心で誓い、その秘密を持った儘(まま)で世間と遠ざかって、果てる覚悟ですから、どうか問うては下されますな。私の身は、秘密が出来たと同時に、人間の外へ埋められたのも同じ事です。」

と少しも決心を動かさずに、辞(いな)む中にも、真に此の後の長き生涯を、かの秘密を抱いたまま、唯だ独(ひと)りで送り尽くすかと思うと、覚悟した身であっても、悲しさが耐え難く、思わず恨めしき泣き声を発し、

 「エエ、年の行かない頃とは云え、余りに愚かで有った。余りに目が見えなかった。」
と藻搔き揺(ゆれ)ると、事情を知らない春川も、泣かない許(ば)かりに、

 「何うか打ち明けてさえ下されば、何もその様に嘆く事は有りませんのに。」
 清「イイエ、秘密があることより上は、打ち明ける事が出来ません。もう春川さん、貴方と私との間には、暗い暗い淵の様な隔てが有って、何うしても越える事は出来ません。」

 春川は黙然たることやや久しくして、
 「では此のまま私に立ち去れと仰るのですか。」
 清「致し方が有りません。」
 春「たとえ立ち去るが為に、私の生涯が非常な悲しみの底に沈んでも」

 清「ハイ二人の生涯が、何れほど辛かろうともです。逢えば却って辛さを増す許かりですから、生涯のお分かれとして、再び顔を合わさない事に致しましょう。」



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