yukihime29
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.10.14
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第二十九回 「見違えて耐(たま)る者か」
学問ある山番の噂を、清子は余所事に聞き流した。翌日来客一同は、此の家の後ろにある、山の景色を見巡る事と為り、主人武男に従って山に行ったが、山の入り口に、丸木を以て作った柵の門があった。
門を入ると、道の傍(脇)に、山番の男が三人立って、待っていた。既に戈田(ほこた)の指図で、案内を命じて置いた者と知らる。菱江夫人は、身近く来る四、五の客に向い、
「アノ三人の中、真ん中に居る、背の高いのが、昨夜お話し申しました学者ですよ。」
と云うと、一同の背後の方に、清子と並んで歩いていた倉姫は、清子に話しかけ、
「私が由緒ある家の息子だろうと疑うのは、無理ではないでしょう。御覧なさい、総ての様子が、何となく紳士らしく見え、外の山番とは違って居るでは有りませんか。」
清子は別に面白い事柄とも思わなかったので、その男は背を向けて林の中に入って行ったので、どの様な顔立ちなのかを、見ることは出来なかった。唯だ背姿(うしろすがた)から、他の二人より少し背の高いのを認めたけれど、
別に山番は背が低い者、紳士は背が高い者と、限った訳では無いので、特段に一人を紳士らしいとも思わず、縁の広い帽子が既に古びて形を失っていたり、着物の肩の縞目も分からないほど汚れて、所々に鍵裂きを繕ろった跡が見えるなど、孰(いずれ)にも優も劣も無い同じような山番である。
しかしながら、他の客の中には、倉姫に同調し、
「成るほど、歩き方が何う見ても語学者の風ですよ。」
と言うも有れば、
「イヤ悟的(ゲーテ)の文集でも読んだ者で無ければ、何うも彼の様に、帽子は冠(かぶ)りませんよ。」
などと言う者も有った。
主人も幾分力を得、
「イヤ彼の記憶の善い事は不思議です。山番中では、新参で有りますのに、森の木の数から、何の草は多くは何の辺に生えて居ると言う事まで、総て悉(ことごと)く諳(そら)んじて居るのです。
此の山に関する事柄なら、何を問うても正確に返事します。」
などと打ち語るうち、一同は谷間から吹き上げる風が、非常に涼しい所に出たので、以前から茲(ここ)には、腰掛けも設置してあったので、少しの間小休憩する事と為り、清子も一同と共に腰をおろして休んだ。
背の高い彼の山番は、一同の横手を五、七間(9mから12.6m)離れた所に立ち、御用があれば、何時でも承(うけたまわ)ると云う様子で、恭々(うやうや)しそうに控えて居たが、此の時フト清子の顔に眼を注ぎ、暫(しば)し怪しそうに眺めた末、忽(たちま)ち手に持って居る、柵の戸の鍵を取り落とした。
客一同は、争って涼風に顔を向けた際だったので、彼の様子には気が付かなかったけれど、彼は急いでその鍵を取り上げながら、最早や此所に立って居る事が出来ない様な様子になり、とある樹陰(こかげ)に引き退き、その背後から、何人にも悟られない様に、又熟々(つくづく)と清子の顔を打ち眺め、
口の中で、
「アア本当に夢かと思った。十年の懲役が全く夢で、再びセント、アイナの海辺に居た時より、それほど年を取って居ない。別人かも知らん。
変わり果てた私の姿とは大層な違いだが、イヤナニ別人ではない。別人ではない。寝ても醒めても思い続けた我が妻を、見違えてたまる者か。我が妻、我が妻、アア到頭我が妻に巡り合った。此の様な時に慌ててはいけない。」
と呟(つぶ)やいた。
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