巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime30

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.17

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください 。

文字サイズ:

a:110 t:1 y:0

         第三十回‎ 「紙切れ」

 清子を眺めて「我が妻」と打ち呟(つぶや)く此の山番こそ、清子の所天(おっと)下林三郎にして、清子が密かに推量した様に、牢の中に死にもせず、十年の懲役に服し終わって、此の戈田(ほこた)家で、山番をするに至ったとは、読む人の、既に見て取った所である。

 しかしながら、此の場所だけは何事も無く、清子自らは、自分が山番に眺められた事をすら、知らずして済んだ。
 午後二時頃に及び、客一同は小餐の為に、此の山の一方に在る、瀧の下に集まったが、食事半ばにして、倉姫は並び坐している清子に向かい、

 「アレ、御覧なさい。学者の山番が、今此方(こちら)へ向かって居ますよ。」
と言う。清子は何とも思わず、首を挙げて見ると、自分の正面、五、六間離れた所に、その山番が宛(まる)で、番兵の様に立って、而(しか)も我が顔に眼を注いで居るの見て、無作法なる振る舞いだなと、少し心の中で怒り、

 「学者だか何だか知りませんが、アノ様に客の顔などを眺めるとは、山番らしくない振る舞いです。」
と言う冷淡な答えに、倉姫も話の潮先を折られて終わった。

 しかしながら清子は、怪しい事に思い、考えるともなく思い廻すと、非常に不安な念が、自ずから湧き起こるのを禁じ得ず、再び首を挙げて、彼の顔を見ると、その目、その口許、確かに初めて我が目に入る者では無かった。

 扨(さ)ては、扨てはと思ううち、事態は忽ち犇々(ひしひし)と我が胸に徹(こた)える許りに分かって来た。彼である、彼である、彼は未(ま)だ死にもせずに、再び我が前に現れて来たのだと思うと、急に目も眩(くら)み、

 四辺(あた)りの地盤も、揺らぎ出した様に感じられ、殆んど此のまま、此所に気絶するかと、自ら気遣う程とはなったが、今気絶してはならないと、必死の思いで身を引き締め、漸(ようや)く何気なく粧(よそお)うことは出来たとは言え、心の中は、旋風(つむじかぜ)が吹き荒(すさ)む様に渦巻いて、打ち騒いだ。

 彼は、私を己が妻であると、打ち叫ぶ気だろうか。打ち叫んで、昔自分が、非常に賤しむべき巧みさを以て、少女を欺(あざむ)いた、その罪深い所業を、世にも人にも知らせようとする心だろうか。

 それとも、人の居ない折りを待ち、我が傍に来て、所天(おっと)である権利を言い張り、妻として私を連れ去ろうとする心だろうか。どちらにしても、私の破滅は同じ事である。最早や、逃れるに道は無い。

 あわれ蒼空(あおぞら)が落ちて来て、此のまま私を包んで欲しい。あわれ大地が暗く開いて、彼が一歩でさえも、此方(こちら)を指して近づかないうちに、私を千丈の谷底に葬って欲しいと、徒(いたずら)に悶え苦しんだが、その甲斐なし。

 幾時苦しんだかは知らないが、忽ち耳に入ったのは、
 「アレ清子さん、貴女は何をその様に考え成されます。」
と言う、菱江夫人の声である。驚いて、その方に振り向くと、夫人は莞爾(にこや)かに、

 「武男が唯今、是から一同で、昔の城跡を見に行こうと申しましたのに、貴女は唯だ俯向いて返事も成さらずーーーけれどもお厭(いや)では無いでしょうね。」

 清子は殆んど口から出任せに、
 「ハイ、厭では有りませんとも。」
と答え、更に四辺(あたり)を見ると、一同は早や食事を終わり、立ち上がって、思い思いに何事をか語らって居るのに、自分だけはは、皿の物を半分の余も喫(たべ)残し、まだ片手にスプーンを持っている儘(まま)である。

 此の有様を、一同の客に気付かれたかと思うと、恥ずかしい限りであるが、幸いに、菱江夫人が、酸いも甘いも噛み分けて、非常に思い遣りの好きな人だけに、少しも決まり悪い思いをさせず、

 「オオ、貴女は永く、戸外へお出でなさらずに居らしていた為め、天日に頭を照らされて、気が遠くおなり成さったのです。」
と言い、手を引いて立たせた。

 是から一同と共に、城跡の方を指して歩み行くと、彼の山番は、機会さえあれば、清子に接近しようとする様子に見えたが、清子は、少しでも心弱い様を見せては成らずと、有る丈の勇気を以て、自分の心を引き立て、宛(あたか)も、眼中に彼の顔が無いかの様に振る舞い、

 時々は、自分の衣服は、彼の身に触れるかと思う事さえ有ったが、特に裳裾(もすそ)を引き去ろうとはせず、宛(あたか)も奴隷に対する、女皇の様(さま)で、心の底が測り知ることが出来ないほど、落ち着いて構えていると、彼も流石に如何ともすることが出来なかった。

 客一同が城跡を見終わる頃まで、何事もすることが出来ないで居たが、既に日も暮れ方になって、一同は、最早や帰って行こうと言い出した頃、彼は清子が、他の客から少し離れて立って居るのを見済まし、手に何やら紙切れを持って、まだ山番の恭(うやうや)しい態度で、清子の傍に寄り、何度も首を下げて、

 「今、貴女様が、之をお落としに成りました。」
と言い、その紙切れを差し出した。言葉の中には、若し此の紙切れを受け取らなければと、脅迫の意を含んでいるような言い方だった。



次(第三十一回)へ

a:110 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花