巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.3

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         第三回‎ 「右と言えば左」

 友子が清子を連れて行った、「セント・アイナ」の浜辺は、海水浴場の名は有れど、英国海岸中の最も静かな所にして、唯だ一軒の「愛那旅館(アイナホテル)」より外に宿屋もなく、その客と言っても、七組、八組より超える時は稀である。

 何故この様な所を選んだのかと言うと、一つは友子の親しい稲葉夫人と言う人が逗留しているのと、二つにはこの様な静かな所ならば、自ずから清子が友子に馴れ親しむだろうと見込んだことに依る。

 しかしながら、此の見込は全く外れ、清子は唯だ友子を、後の継母と思い、憎む一方にして少しもなじまず、それどころか、なるべく友子の手に余る様に振る舞い、持て余させて、父との結婚を諦(あきら)めさせる事にしようと、何事も態(わざ)と友子の心に逆らい、右せよと言えば却って左し、左せよと言えば必ず右して、只管(ひたす)ら友子を、苛(いじ)めるにのみ勉めて居た。

 ところが、旅客の中に一人、早くも此の様を見て取って、之を種として、自分の大望を果たそうとする人が出て来た。
 その人は誰だ。
 清子、友子より十日ほど遅れて、此の宿に来た単身客にして、唯だ両三日(二、三日)の逗留と称し、宿帳には野下三郎と名を記して泊まり込んだ、二十五、六歳の若紳士である。

 この人は唯だ一目、清子の美しい姿を垣間見てより、茫然として自分を忘れる様な様子となり、何とかして近づこうと思ったものか、宿帳を借りて客の姓名などを調べた末、独り頷(うなず)き、

その日の夕方、友子、清子が彼の稲葉夫人と共に、運動場を散歩している所へ下りて来て、友子清子には目も注がずに、物思わしそうに稲葉夫人の顔を眺め、急に思い出した様に傍に寄って、

 「オオ貴女は稲葉夫人でいらっしゃいますネ、私は先年柳園伯爵夫人のパーティーで、一度お目に掛かりました野下三郎です。」
と奇麗な言葉で自ずから紹介し、更に言い訳の様に、

 「イヤ、外の場所ならばこの様に不躾(ぶしつけ)に、お許しを待たずにお近づきは求めませんが、何分、此の退屈な海辺で、少しの知り合いも懐かしく思われますから。」
と如何にも懐かしそうな口調である。

 夫人はちょっと考えていたが、当時柳園伯爵夫人と言えば、社交界の中心で、その邸でのパーティーには、幾度も招かれて、多くの知らぬ人にも紹介されていた事なので、多分はその中の一人に違いないと思い、

 「ハア野下さんと仰(おっしゃ)いますか。ハテな、「レスタシャー」州に、私の知っている野下家と言うのが有りますが、貴方はその野下家の御子息ですか。」
 野下三郎は驚きもせず、
 「ハイあの野下とは遠い親戚ですが、此の頃は余り行き来を致しません。」
と言う。

 その様子は、宛(あたか)も、その野下家よりも遥かに身分が高い為、同等に交際せずと見下して、話を避けている様に見えた。兎に角も、柳園伯爵家のパーティーにまで、出入りの出来る人ならば、何の野下にしても、相当の身分に違いなと、稲葉夫人が心を許すと、野下は非常に流暢な弁舌で、面白くロンドン社交界の話を初め、何時の間にやら友子にも清子にも言葉を交わす迄に至った。

 此の後は、彼、最初に二、三日の逗留と言って居たことも、全く忘れた様に、五日、十日と逗留して、更に立ち去ろうとする様子も無く、ついには稲葉夫人よりも友子よりも、次第次第に清子に近づく様子なので、友子は油断し難い事に思い、或る時清子に向かって、

 「貴女は余り、あの野下ととか云う方に、気を許してはいけませんよ。」
と注意すると、清子は例の如くに逆らって、
 「それは何故です。貴女はあの方を気の許されない人と、それ程詳しくご存じですか。」

 「イイエ、少しも知りませんが、初めて見た時から、誠心(まごころ)の有る人で無いと思いました。決して親しく為さってはいけません。」

 是れは、真実の母の口より出るべき、極めて親切な戒めであるが、清子は唯だ此の戒めを聞いたが為に、
 「好し、是から彼の人となるたけ親密にしよう。」
との全く反対の決心を引き起こし、是よりは野下三郎と非常に親しくする様になった。

 若し野下にして、清子を恋慕う心が無ければ、清子が如何に慣れ親しむとも、別に気に留めるべき所は無く、普通の旅先の人同士、取り分け親しみ合う交際として見過ごせることだが、彼の清子を愛する様は、並大抵ではなく、上部(うわべ)にこそ現して居なかったが、単に清子一人の為に、知らず知らず逗留を長くする程の入れ込みだったので、決して油断すべきでは無かった。

 取り分け彼は、その顔は極めて柔らかにして、小児をも大人をも、共に懐かしむ様な相が有るが上に、その才の捷(はしこ)くして、心のこまやかなことは又驚くほどだ。一言一行悉(ことごと)く全て清子の気に叶い、果ては人の居ない所で清子と差し向かいになって、長い間打ち語らう事も有るようになったので、友子は愈々(いよいよ)捨てて置くことは出来ないと思い、又も清子に向かい、

 「ナニ、あの方と親しくするのは、もう致し方が有りませんから、幾らでも親しくなさいですが、その代わり、どうか外の人の居ない所での、あの人と差し向かいで話す事だけは止めてください。貴方の阿父さんでも、必ず此の通りに言いますよ。

 イイエ、女がもう十六という年になれば、決して若い男と差し向かいになる者では有りません。差し出た様では有りますが、私が阿父さんに済みませんから。」

と殆んど涙を流さぬ許(ば)かりに言ったが、悲しいいことに、是も叉、全く反対の心を起こさせ、却って清子は人前で野下に逢うよりも、何人も知らない間に、知らない所で逢うのを喜ぶ様になって行った。



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