巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime33

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.20

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         第三十三回‎ 「珍客」

 悔悟の誠心は充分に下林の言葉に現れ、彼が熱心に善人に立ち返ろうと思って居る事は、疑がうことは出来ないと思われる。それで清子は殆んど、「罪を許す」との言葉を、発っしようかと迄に、思ったが、此の言葉を発することは、彼の妻である今の身分に、満足するにも当たることだ。

 欺かれて婚礼の儀式を経て、既に妻である身では在るけれども、私はどうして罪に汚れた此の人の妻であることを、言葉だけにもしろ、甘んずべき女で居て良い者だろうか。

 罪を許す事は易いが、彼れの妻に甘んずる様な言葉を吐くことは難しいと、少しの間の思案で結論付けたので、
 「下林さん、許すと云うのは、非常に容易(たやす)い事ですが、十年の上も日に夜に貴方を恨み、今以てその恨みが消えません。

 イヤ此の後幾年経ても、消える見込がありませんのに、貴方が言う、善心に立ち返ると言う一言の為に、直ぐに許すと言う言葉が、吐けましょうか。心に恨みが残って居て、許すと言うのは、真に許すでは有りません。」
と、言う声にはまだ、恨めしい音を含んでいる。

 下林は此の言葉に、怪しいほど落胆し、
 「アア、未だ私の罪は消えないのでしょうか。」
と腹の底から、深い嘆息(ためいき)を洩らして来た。

 清「下林さん、良くお聞きなさい。貴方の罪を許すと言う事は、貴方が私を妻にした事を、許すと言う事に当たります。私は貴方に騙され、婚礼の式場へ立たせられた事を、死んでも許すことなど出来ないと、今以て思って居るのです。

 けれども貴方が善人に立ち返ると言うのを、妨げる様に当たるのも罪深い所業かと思いますから、兎に角一週間、じっくりと考えさせて下さい。今から一週間の後に再びここへ来て、お目に掛り、私の思う丈の事を申しましょう。
 更に良く考えて見ない事には、思案も定まりませんから。」

 下林は少し安堵し、
 「再びお逢い下さるとは有難い、その代わり、その時に許すとさえ言って下されば、私はその上の願いは有りませんから、貴女のお言葉次第で、世界の果てへでも身を隠します。貴女が私の妻だと言う、此の秘密が洩れない様に、生涯口を噤(つぐ)みます。

 イヤこのように申せば、それだけの心が有るなら、何も許すと云う言葉を聞かずに直ぐ立ち去って、此のまま世界の果てへ、身を隠すのが本当の親切だと、此の様にお思いなさるかも知れませんが、どうも貴女に恨まれて居ると思っては、一刻も心が休まりません。

 少しも貴女に恨まれて居ないと、こう見届けが附けば、それで初めて安心が出来、思い残す事がなくなりますから、何所へでも身を隠します。」
 
 清「貴方のその御親切は、今と為っては遅すぎます。若し婚礼の式場へ、私を誘(おび)き入れる前に、そうお思い成さったなら、今更私しへ詫びる様な事も何もなく。」

 三「ハイ、夫れだから後悔に耐えられないのです。今でも若し婚礼を取消す工夫があれば。」
 清「今取り消したからと言って、何の甲斐が有りましょう。私は此の婚礼の為に、女の身として、苦しむ丈の事は悉(ことごと)く苦しみました。」

 三郎は少し気が付き、
 「それでは、あの後、誰をか愛し、私との婚礼さえ無ければ、その人と夫婦になれるという様な事でも、お有りなさったのですか。」

 清「ハイその通りです。貴方との婚礼さえ無かったなら、幸福に人妻となり、その人と苦労を共にする事が出来たのです。」
 若し三郎に少しでも、悪心がまだ存して居たならば、彼は必ず此の言葉に、幾分か嫉妬の色を現すべきだったが、彼は飽く迄までも、自分が清子を欺いた振る舞いを悔み、唯だ清子の怨みを解く外に、野心は無いと見え、只管(ひたすら)に打ち萎(しお)れて、

 「では貴女から、離婚を法廷にお願い下さい。そうして婚礼を取り消しましょう。父上に仰(おっしゃ)りさえすれば、直ぐに離婚願いの手続きをして呉れます。今となっては此の外に、婚礼を取り消す道は有りませんから。」

 清「イイエ、父にはその様な事が、云える程ならば、今まで苦労は致しません。父は一人の娘が、盗人の妻で有ったと知れば、怒り狂って、どの様な事になるか知れません。私は火責め水責めに遭うとしても、貴方の妻と云う事は誰にも知らせる事が出来ません。」
 
 下林は此の言葉に益々以て、自分が清子を苦しめたことが、並大抵ではないことを知り、
 「アアそれでは一週間の後にお目に掛っても、到底許すと云うお言葉を、聞く事は出来ないでしょうか。」

と泣く様に呟(つぶ)やいた。清子は最早や長居する要なしと見て、
 「兎に角も一週間後に」
との短い言葉を残し、そのままここを立ち去った。

 是で大いに恐れた密会は、それほどまで恐ろしい事も無く済んだ。一週間後に再び逢わなければ成らないとは云え、彼が全く後悔して、唯だ私の許しを請う一念であることは、明らかなので、幾分か心安し、それまでの中に何事をも、じっくりと考えて、決めて置こうなどと思って、此の日を暮らしたが、

 意外な事の後には、又意外な事が続く者か、此の夜、晩餐の席で戈田(ほこた)は雑話の末、
 「イヤ明朝は、皆様が久しくお逢いなさらぬ珍客が来られますよ。」

と言い出し、珍客とは誰だろうと、客の一人が問うたのに対して、
 「当世の英雄です。と申せば大抵お分かりになりましょう。」
 柳園伯爵は覚る事が出来て、
 「アア久しく便りを聞かなかった、アノ黙死将軍ですね。」
 菱江夫人は之に答へ、

 「そうです。全くアノ春川鴻君です。」
 清子の父、河畑良年は、驚くよりも気遣って、清子の方を振り向くと、清子の顔は赤らみもしないで、非常に青かった。



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