巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime34

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.10.29

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         第三十四回‎ 「古傷に再び血を」

 所天(おっと)と云う名が有って、我が生涯の仇とも云うべき下林三郎と、所天(おっと)では無いが、所天(おっと)よりも恋しくして、生涯に唯一人の情人である春川鴻とに、同じ時、同じ家で廻り合うとは、抑々(そもそも)何と云う因縁であろう。それも前以て、この様であるべしと期して居た事ならば兎に角も、春川に逢うことの意外さは、下林に逢ったことが、意外なことであるのと同じことだ。

 清子は、何となく恐ろしい気がすることを、禁じ得なかった。春川と生き別れをした悲しみも、今は忘れてしまったわけでは無いが、漸(ようや)く身に慣れて、大方は辛いとも思わない程と為っているが、今又彼の人に逢うことは、将(まさ)に癒えようとしている古傷に、再び血を出させる様なものである。

 彼の人の方も、きっと同じ思いに違いないはずなので、私が此の家に在ることを知っていたならば、決して来たりはしないに違いない。何とか再び逢わずに、忘れ掛けた苦痛を、此の儘(まま)忘れ尽くす方法は無いかなどと、徒(いたずら)に考え廻したが、

 心の底のどこかに、又逢って見たいとの、非常に切なる思いもあり、悲しさと嬉しさとに、心は麻の様に掻き乱れ、殆んど座に耐えられない思いもあるが、客一同が此の上、春川の事をどの様に噂するかと思うと、それも聞き度くて、立ち去ろうとしても立ち去ることが出来ずに控えていると、柳園綾子夫人は、菱江夫人に向かい、

 「春川さんは何の為にご帰国なされましたか。」
と問う。戈田(ほこた)は菱江夫人に代わって答え、
 「一体全体、アノ様な国家有用の人物が、七年も八年も空しく旅行して居るとは無益です。もう数年以前に帰国して居るべき筈です。」

 柳園伯爵も賛成し、
 「そうです。もう数年以前に帰国して居るべき筈です。」
 「そうです。旅行中に随分有益な観察をして、国家を益した事は益しましたが、それにしても、何の為にアノ人が外国へ行ったのか、私は初めから不審に思って居ました。」

 真に春川が、何の為に旅立ちしたのかは、清子と良年夫婦の外には、多く知る人は居ない事ですが、流石に綾子夫人は社交界の中心である丈に、又女の気質だけに、その辺の事をも知って居ると見え、宛(あたか)も、清子に対して、気の毒と思って居る様に、目配せを以て、所天(おっと)に、その様な事を問う勿(なか)れと注意した。

 しかしながら所天(おっと)の伯爵は、軍人の身に関する事柄に、非常に熱心さを現す質(たち)なので、夫人の目配せには気付かず、
 「春川氏は妻帯を成さったでしょうか。」
 菱江夫人も清子に気を使い、

 「イエ、一度も為されません。多分は生涯独身で暮らすお積もりでしょう。」
 伯「アノ様な英雄をして、子孫を残さずに終わらせるのは、国家の為に残念です。今度帰れば必ず結婚を薦(すす)め様ではありませんか。」

 座に列なっている令嬢の中には、その様な英雄ならば、我が身こそはと、忽(たちま)ち眼を光らせる者が、一人ならず見られたのは笑えた。倉姫は柳園伯に向かい、
 「貴方がお勧めなさらなくても、今度は多分然るべき婦人を選び、結婚なさる積もりでお帰りでしょう。エ、そうでは有りませんか。」

と何気無いうちに、幾分の熱心を隠して云うのは、是もその事を気遣う一人だからではないか。此の問いには父戈田(ほこた)が答え、

 「ナニその様な目的ではない。領地の選挙区が空いたから、選挙区民に是非ともと迎えられ、衆議院の議員に為る為に帰られるのじゃ。それも容易には承諾を為されなかったが、選挙区民の依頼に由り、私からも切に勧(すす)めたので、到頭帰って来られる事になった。」

 今まで無言であっただ良年も、初めて口を開き、
 「成る程、アノ様な外国の事情に通じた方が、衆議院へ出て下されば、外交の刷新を図るには非常に好都合です。世界の大勢に通じない急進党などが、兎角に費用の節減を唱えるので、実に嘆かわしく憤慨に堪えません。」

 柳園伯も和して、
 「軍事費の方もその通りです。」
 主人戈田(ほこた)は満足の様子で、
 「兎も角、皆様がそう歓迎して下されば、春川氏を招き寄せた私も本望です。」

 是にて春川の噂は終わったが、是だけの話の中にも、清子の心の底に、痛く響く事は少なくなく、最早や他の談話など聞いて居る気力もなくなったので、余り他の客の目に留まらない様に、静かに自分の部屋に退いた。

 明日は何うあっても、彼の人に逢うことを、避ける事は出来ないのかと思うと、様々に心が騒いで、夢も結ばれず、断腸の思いで夜を明したが、翌朝は果たして、春川と顔を見合わせて立つ事となった。



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