巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime35

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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         第三十五回‎ 「短き三日」

 春川鴻(こう)が此の家に到着したのは、丁度清子が菱江夫人と共に、散歩の為に門口まで、歩み出た時であった。
 清子が此の家に居ようとは、素より春川の思っても居なかった所だったので、彼は清子には、気が付かない様に、その儘(まま)菱江夫人の前に行き、熱心に久し振りの挨拶を初めた。

 その間に、清子は春川の様子を見ると、八、九年分かれた間に、彼も非常に苦しんだと見え、昔と同じ勇壮快活な顔の面(おもて)に、昔は無かった、非常に深い愁いの色があり、私と分かちあった恋の悲しみは、時を経、所を隔てても、まだ消えないと見えた。

 消えない悲しみを心に抱いて、再び私に廻り逢ったのは、きっと私と同じくらい、辛いに違いないなどと思い、急に動悸が高まるのを感じたけれど、今更ら逃るにも逃げる所は無く、如何しようかと惑ううち、春川はフト此方を向き、清子の顔に目を注いだ。

 彼は少しの間、夢かとも疑う様子で、一語をも発しなかったが、漸(ようや)くにして、
 「オオ」
と云い又、
 「貴女はここに」
と叫んだ。

 清子も落ち着かない声で、
 「ハイ、私もここで貴方にお目に掛ろうとは、思いも寄りませんでした。」
と答えると、菱江夫人は双方の辛いだろうことを察し、
 
「イヤ、外にもお互いに意外な方が、沢山ありますよ。」
と云いながら、早や春川を引いて、家の中に入って行ったのは、流石に交際に慣れた主人(あるじ)振りと言える。

 清子はそのまま一室に引籠った。
 幾年経るとも、到底春川と一緒になる事の出来ない身なので、屡々(しばしば)逢う丈け、益々古傷の痛みを深くする者と思い
、是以後は多く客間などには出ず、なるべく春川を避けて、唯だ食堂に落ち逢う時の外は、見も見られもしない様にして居たが、まだ目に見えない絆が、両人の間を繋いでいるからなのか、三日目の夜に、盆栽室の更に人の居ない所で、又思いがけず出合った。

 清子は殆んど逃げ去ろうかとも思ったが、早や春川が立ち塞(ふさ)がっているので、止むを得ず、足を留めたが、春川は強いて自ら落ち着こうとする声で、
 「清子さん、一応貴女へ申し度い事があります。今ここでお聞き下されましょうか。」

 清子は口籠って唯だ、
 「ハイ」
と答えた。

 春「イヤ外でも有りません。全く此の家に、貴女が居らっしゃる事を、知らずに来たと云うこと丈は、承知して戴き度いのです。お在(いで)と知れば、この様に憚(はばか)りも無く参る所では無かったのです。

 貴女にお目に掛ったからには、何気なく冷淡に構えて居る事は、到底私には出来ず、どうすれば好いかと、殆んど途方に暮れて居ます。貴女だって私と一つの家に留まるのは、きっと居辛い事でしょう。依って私はなるべく早く、主人に暇を告げて、此の家を立ち去る事に致します。それがお互いの為だろうと思います。」

 素よりお互いの為ではあるが、八、九年にして唯一度廻り会い、深く言葉さえ交えずに、再び生き分かれをしなければならないかと思うと、余りの運命の情けなさに、清子は唯だ胸が塞がり、無言のまま頷いて、

 「そうなさい。」
との意を示すだけ。
 春「ですが、もう一つ申す事が有ります。先にお分かれして、八、九年、私は唯だ、どうかして貴女の事を忘れたい、忘れたいと思い、先から先へ旅行して、心を紛らわせて居ましたけれど、到底忘れる事は出来ず、今もまだアノお別れ申した時と同じ様な思いですが、

 併し十年は一昔と世間でも云い、その間にきっと貴女の身の御事情も多少は違っただろうと思いますから、ここで再びお問い申しますが、先年貴女に願った事を、今再び私から願い出れば、貴女のお返事は如何(いかが)でしょうか。」

 先年願った事とは、縁談を指す事は云う迄もない。清子は殆んど先年、彼を断った時と同じ程の辛い思いで、
 「ハイ私の返事は、先年の通りです。事情が少しも、先年と違っていませんから。」

 若し違う所があるとすれば、先年は若しや下林が、死んだのではないかとの、薄々の見込みがあったが、今はその下林が、目の前に現れて、その様な見込さえ、全く消えてしまっている。春川は嘆息し、

 「清子さん、昔の人が、『年月はどの様な痛みをも癒す。』などと云って居ますが、私の痛みは年月が経っても少しも癒えず、八年前に、そのお返事を得た時より、今度は一段と辛く想います。若しや貴女のお心に、幾等か動いた所でもあるのではないかと、密かに此の様に考えて、楽しく思って居た者ですから。

 清「ハイ、私の決心より、もっと強い事情があるから、致し方がありません。此の後、幾年経ても同じ事です。」
と言葉がまだ全くは終わらないうち、此の部屋へ他の客二、三人入って来たので、二人はそのまま分かれた。

 此の翌日、春川は清子との約束の様に、主人戈田(ほこた)に暇を告げようとしたが、戈田の外に他の客まで加わって、切に引き留め、中々に許さなかったので、それならば、枉(ま)げて三日だけ逗留する事にしましょうと云い出したが、三日の日は短かいけれど、再び下林三郎と会わなければならない当日も、此のうちに在り、清子に取っては、此の短い三日の間が、過ぎた八年よりも恐ろしいことになるのは、後に至って知ったことだった。



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