巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime8

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.9

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         第八回‎ 「何(ど)の顔で人の前に」

 戦々(わなわな)と震えて立つ、清子の心中は、誰一人知る者が居ない。一夫人は猶(なお)も語を継いで、

 「イイエ、それよりももっと、奇妙な事があるのです。捕吏(警官)が手錠を取り出して、両の手を縛ろうとすると、下林三郎は、エエ、情けないと言って、胸の辺から草花を取り出して、是を私の妻に渡して下さいと言って、捕吏の足許へ投げ付けました。

 稲「オヤオヤ、彼には妻が有るのでしょうか。」
 一夫人「捕吏(警官)は嘲笑(あざわら)って、何だ此奴(こやつ)は、人の憐れみを買う為に、良く狂言じみた事をしやがる。命より強い絆だの私の妻などと、妻があるか無いかは、知らぬけれど、その様な物は用は無い。」

と言い、その草花を、蹂躙(ふみにじ)ろうと致しました。すると三郎は又、その草花を取り上げて、花嫁にでも接吻する様に、その花へ接吻して、又懐中(ふところ)へ隠しましたが、その有様はどうしても、唯の芝居とは思われませんでした。

 捕吏も怪しみ、アア此の奴は、発狂の真似をするのだと言って、直に手錠を嵌めました。三郎は此の後は何もせず、唯だ泣き沈む丈でしたが、悪人とは言え、本当に可哀そうでした。彼の身には、未だ捕吏も知らない、深い秘密があるだろうと思われます。

 稲「何にしても、私共は全くあの悪人に、欺かれていましたよ。是からは、旅先などで慣れ慣れしく言葉を掛ける人があっても、迂闊に心は許されません。」

 一夫人「そうですとも、赤い被服(きもの)で、牢の中に居るべき人が、紳士の風で、海水浴場へ来る時節ですから、どうして、知らぬ人に気が許されましょう。」

 友「でも、もうアノ人も、遠からず相応の被服(きもの)に着せ替えられ、相応の場所に、据(す)えられられましょう。」
 一夫人「それはそうですとも。一月と経ぬ中、懲役人と為り、暗い世界へ沈んで仕舞いますワ。」

 稲「それでも、お互いにあの人と、酷く深い懇意を結ばないのが、未だしもの仕合せでした。」
 一夫人「そうですとも。若しあの人と一緒に、新聞にでも名を出されたら、幾等恥じて死んでも追い付きませんワ。」

 稲「イイエ、新聞は扨(さ)て置いて、人の噂に登っても、世間へ顔を出す事は出来ません。懲役人の友達と言われて、何の顔で人の前へ出られましょう。」
と言って、話はそれからそれへと、延び行かんとするので、友子は聞き兼ねて、

 「もう此の様な厭な話は、止(よ)そうではありませんか。」
と言うと、一夫人も知って居る丈、喋(しゃべ)り尽くしたと見え、切り上げて立ち去った。

 清子は数年の後に至り、此の時、如何にして此の話を終わりまで聞き尽くす勇気が、自分に有ったのだろうと、怪しんだと言うことだ。真にさもありなん。聞く中に、耳の底は怒れる波の様に鳴り響き、眼は燃える火を以て覆われた様な思いがあり、

 脳髄は全く掻き乱れて、自分か他人か、区別が出来ない様になり、あの一夫人が立ち去ると共に、自分も友子と稲葉夫人とが、気付かない間に、宛(あたか)も幽霊の様に、トボトボと次の間に退き、有り合わす椅子を杖にし、辛くも身を支えて立つと、様々の苦しく、恐ろしい思いは一時に胸に湧いて起こった。

 アア、私は何者だ。神に誓った彼、三郎の妻である。彼と一心同体にして、此の心は死すとも変わらないと、固く結んだ言葉が、今も我が耳に、我が口に鮮やかである。三郎は何者だ。悪の悪、恥の恥、天も人も許さない罪を犯し、名を隠し、人相を変じて、法網を潜(くぐっ)て居た罪人である。

 此の世には、身を置くべき所なし。我が家は千年の昔から、歴史に輝く勇者を出し、政治家を出し、外交官を出し、曾(かつ)て家名を汚す様な子を、出したことは無い英国屈指の旧家と敬われ、私自身も、今が今迄、その家の子に生まれた事を、誇って居たのに、今は罪人と秘密に結婚し、取り消すのに、方法も無いその妻である。

 私が平民として賤しみ、我が家に入るべからずとして、拒んだ友子さえ、懲役人の知り合いと言われては、世に出す顔が無いと言うことなのに、懲役人の妻となり、懲役人と一心同体の身となって、如何にして我が家筋に、我が父に、自分自身に顔を合わせることが出来ようか。

 私は彼、三郎よりも猶更、此の世に置き所も無い身である。彼にはまだ牢屋と言う、その人相応の居所がある。私には牢屋さえも無い。神の前、人の前、世の前に、何と言って身を置こう。

 自分がこの様に迄、穢(けが)れようとして居る事を知らずに、友子を近づけ難しと思い、苦しめる為、斥ける為に婚礼し、今はこの様な破滅となってしまった。復讐は心地良いと誰が言ったのだろう。

 心地良しとはこの様な者かと、悔み、恨み、悶え、煩(わずら)う心の苦しみは、今迄苦労の何たるかを、知らずして育った身に、余ったと見え、やがて歯を噛み締めたまま、気絶して床の上に倒れた。



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